創業者大西秀憲ヒストリー
このページでは、創業者・大西秀憲の足跡、エピソード、哲学などをご紹介します。
HISTORY01生い立ち
創業者・大西秀憲は、1947年(昭和22年)7月27日に兵庫県宍粟郡山崎町金谷(現 在の宍粟市山崎町金谷)で父・一二と母・タネの長男として生まれました。
父・一二は、戦時中3回に渡り出征し、終戦後ビルマから帰国して農業関連の地方公務員を務めていましたが、戦後間もない時期でもあり決して恵まれた幼少期ではありませんでした。
HISTORY02少年時代
少年時代の大西は、山野に囲まれた自然豊かな環境で田畑での農作業や山仕事が課せられた一方で、ボーイスカウト活動にも精を出しながら望遠鏡や真空管ラジオを独自に製作し、無線にのめり込むなど技術者としての才能はこの頃から芽生え始めていたようです。
HISTORY03丁稚時代
高校を出た大西は、独学で電気の国家資格3種類を取得し、ポンプのメーカー他数社に勤務後、三顧の礼で請われて町の電気店に丁稚(店員)として勤めました。
当時は江戸時代からの丁稚奉公の制度がまだ残っていたのです。この頃(1960年代)の日本はいざなぎ景気という好景気の真っ只中でカラーテレビ・エアコン・自動車は新・三種の神器として庶民の憧れとされた時代でした。特にカラーテレビは1964年の東京オリンピックをきっかけに急速に普及しつつあり、当時の大西の仕事はテレビアンテナの取り付けやテレビ修理が中心でした。丁稚時代は辛い事も多く色々苦労したようですが、電気を実地で学ぶ貴重な糧になったと言えます。
HISTORY04技術者としての開花
大西の技術者としての転機になったのは22歳、1969年の事です。
当時、NEC(日本電気)が山崎町に工場を作るにあたり、実務経験3年以上の電気技術者を募集しており、20倍の競争率の中採用されたのです。
採用後、大西は東京や川崎の事業所で生産設備設計および開発に従事し、兵庫工場で稼働させるFA(ファクトリーオートメーション)機器の全てに関わりました。
大西が担当したのは主に工場の生産設備の立ち上げとメンテナンスでした。
立ち上げ直後の生産設備は何かとトラブルが多いものでしたが、ここでテレビの修理経験が何かと役に立ったようです。
また、32歳の時には、会社の一大プロジェクトとして電気二重層コンデンサー(スーパーキャパシタ)の製造ライン立ち上げを全て任され、日程前倒しで成功させ、続いて「ハイブリッドIC」製造ライン立ち上げでは、建物の建設とともに変電所の建設を含めた全てを任されるなど技術者として多方面で才能を開花させました。
HISTORY05退職と創業
NECに23年間勤務した大西でしたが、ある日「神の声」を聞き、即日退職、創業を決意します。
NECでは、生産ラインの立ち上げ、メンテナンスに始まり、営業所長として販売事業に関わった事でモノ作りから販売までの仕組みを理解し、人間関係も大きく広がったが、サラリーマンの限界を知った事が転機のきっかけとなったようです。
1993年1月、大西は45歳でNECを退職し、同年3月に『株式会社テクノスジャパン』を創業しました。大西を含め同志4名での新たな船出でした。
HISTORY06創業後の事業テーマ
会社を設立した大西でしたが、創業後約2年間は事業の方向性を決定するため全知全能を傾けて考え抜く日々でした。
日々の新聞、ニュースをくまなくチェックし、情報収集と分析の結果から「福祉」と「農業」を事業テーマとして大西の創業者としての歩みが始まりました。
当時は、2000年の介護保険スタートを前に「福祉」に関するニュースが大変多く、そこにビジネスチャンスがあるのでは無いかと大西は考えたのです。
HISTORY07『福祉機器メーカー』テクノスジャパンの誕生
テクノスジャパンの製品第1号は、創業翌年の1994年に開発した農業法人向け総合管理システム『FACTOS』でした。
続いて1995年に開発した製品第2号が、『KOTOBAX』でテクノスジャパンの福祉、介護分野における初めての製品です。
兼ねてより「福祉」分野に注目していた大西でしたが、妻の父親が長期入院で衰弱し、言語が発せず意思の疎通が困難になる経験をしており、「コミュニケーション」をするための機器として開発したのが『KOTOBAX』でした。
続いて、1997年に開発した『脳波スイッチMCTOS』は、世界初の画期的な製品として大きな注目を浴び、AP、CBS等の世界的報道機関から取材がありました。
リリース後は、アメリカやヨーロッパにも展示会や臨床テスト等の対応で単独で渡航し、精力的に活動を行いました。
『MCTOS』はその後も何度かの改良を経て現在は、『MCTOS FX』として販売を継続しており、重度障害者や難病患者のコミュニケーションに役立っています。
HISTORY08『離床センサー』、『徘徊感知機器』の開発
1997年当時、意思伝達装置『MCTOS』と並行して開発していたのが、徘徊感知機器第1号の『徘徊ノン』でした。
この製品は、カーペットの下にテープスイッチを設置し、センサーの上を踏むと無線式のチャイムが鳴ると言う原始的なものでしたが、当時医療、介護現場で問題になっていた「拘束廃止」をサポートし、「転倒・転落」や「徘徊」を防止するためのツールとして脚光を浴びました。
1997に開発した『徘徊ノン』は、その後徘徊感知機器『家族コール』シリーズとして発展を遂げました。
また1998年に開発した『徘徊コール』は、その後『徘徊コールⅡ』、『徘徊コールⅢ』とモデルチェンジし、多くの離床センサーラインアップに派生する源流になったのです。
HISTORY09大西の哲学・語録
やってみなわからん!
実践を重視する大西の行動哲学を象徴する言葉です。
また、失敗を恐れず失敗を生かせという意味も込められています。
パッパッパァーとやらなアカン!
中小企業は何かにつけスピードが生命線になるという考えを表現した言葉です。
この言葉は特に開発スタッフを叱咤・激励する際に発されました。
3σ外れとる!
本質・大筋から外れた枝葉末節の考えや事柄に対して発された言葉です。
大西はどのような事柄においてもまずは本質を見極める事に集中し、枝葉末節から物事を判断する事を固く戒めていました。
人間は生まれつき不平等。
但し「時間だけは」万人に
平等である。
恵まれた生い立ちでは無かった大西は、耳ざわりの良い平等主義を信じませんでした。
但し、「時間」だけは、万人に平等に与えられた「権利」とし、時間を有効活用する事に人並外れた努力を払いました。
HISTORY10大西の趣味
- バイク、詩吟、民謡、三味線、船の操縦、飛行機の操縦等多数の趣味を嗜みました。
- 絵画(日本画)は最後に行き着いた趣味で寝食を忘れる程打ち込みました。
- 本社内およびHO記念館所蔵(約280点)の絵画は全て大西によるものです。
HO記念館の案内
「テクノス HO 記念館」では、創業者・大西秀憲が手掛けた製品の展示を行っております。
大西が独創力で開発した製品の一例
少年時代のハンドメイド作品(無線機、ラジオなど)
この頃の大西の経験が、その後の技術の原点となりました。
3つの体験コーナー
大西が世界で初めて製品化した「バイオスイッチ」
この技術を応用した脳波関連の体験が楽しめます!
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