『やってみなわからん!』-私の体験-

No.1 第0章 USAの貴重な体験

投稿日:2009/02/27 投稿者:大西秀憲
1999年2月私は一人でアメリカのミシガン州・Grand Rapidsに居た。
目的は、バイオスイッチ・MCTOSを重度障害の患者さん達にテストするためである。

朝8時30分にメトロポリタン・ホスピタルの事務所に行くと挨拶もそこそこに責任者が言った。
「9時から約90分間、関係者に説明会をしてほしい」
出席者は医者・ナース・セラピスト・大学の先生、そしてマスコミが取材すると告げられた。
聞いた時、一瞬頭が真っ白になりかけた。
多数の米人を対象に説明をすることなど想定外だった。
「どうしようか?」とにかく返答しなければならない。
・・・この間1~2秒だが、考える無言の時間がもの凄く長く感じられた。
私は意を決して「OK」と言った。
(日本人が来たがビビッて説明会を拒否した!と後々まで云われたくなかったのだ)
そして説明会場に行って驚いた!
何とTVカメラが3台もセットされて、取材の人達が沢山居るではないか・・
・・・ともかく時間がきたら始めねばならない、時間は待ってくれない。
もう一つ私には重大なハンディがあった。
英語がほとんどダメなのである! (かろうじて挨拶程度はできた)
(私は37才から6年間、夜遅くイギリス人講師の「英会話」には通ったことがあった)
私は与えられた「1時間30分」の時間を、どのように使うか?を考えてみた。
そして次の事を決めた。
①大きな声で話す。②ゆっくり話す。③オーバーにジェスチャーを使う。
幸い、良く通る声と、声の大きさには充分な自信があった。
私は「詩吟」を25年、「民謡」を15年やっていた。 ・・・この時「詩吟」が役立った!
(人間、何がどこで、役立つか本当に分からないものである)
大きな会議室に、イスだけが並べられていて、そこに聴衆は約70~80人。
私は話し始めたが、不思議と落ち着いていた。・・・聞いている人の表情が見えるのである。

そうなると余裕が出てくる。
・・・この辺で一発、ジョークでもかましてやろか!と云う思い上がりが突然湧いてきた。
ただ、通じるかどうかが分からない?
・・・何しろ、デタラメな英語であるから・・
ところが見事に通じたのである!  会場中、拍手と笑いで溢れた!
そうなると後は非常にやり易かった。
「私の手元には自信の製品がある」 ・・・デモを見せると一斉に驚きの声が上がった!
約10分程の質問時間を取ったが、それに答えるのは非常に簡単である。
・・・製品の技術的な説明をするだけだから・・
それと必ず質問には「That’s good Question」と付加えた。 ・・・これを彼らは喜ぶ。
このようにして無事、私の90分は終了したのである。
尚、当日夕方のTVニュース(地元局)で放映され、地元の新聞は写真入りで大きな記事を載せた。
私は4日間、Grand Rapidsに滞在し、全部で13名のALS患者にテストを行い、感謝された。

私はこの後、デトロイトを経て「メンフィス」に移動し、更にそこから「タルサ」に移動し滞在。
因みにメンフィスはミシシッピー川が流れる平野地で「プレスリー」の生誕地で有名である。
またタルサはオクラホマ州にある石油の町で有名である。
タルサでは説明会を行った後、「デンバー」に向かった。
タルサからデンバーへは真直ぐ北に飛べば近いが、路線が無くわざわざミネソタまで行って乗換える。
ミネアポリスからデンバーに飛ぶのだが、結局飛行は1日がかりとなる。
この時は全て「ノースウエスト航空」を利用したので、こんな奇妙なルートになったのである。
・・・参考までに、このUSA出張の航空券代は¥68,000であった。
関空⇔USA、USA国内全ての航空券を含んだ金額である。・・・信じられない額だった。

デンバーには5日間滞在、この間7名の患者(子供が5名)にテストを行った。
最後の夜には町のホールに約100名の人が集まり「レセプション・パーティ」を開いてくれた。
ホールの入口には大きく「Thank you Mr.Ohnishi」と書かれて、私は非常に感激した。
障害を持つ子供と多くの両親、そしてボランティアと議員が多く集まり、非常に賑やかだった。
私が経験した最初で最後の「私を囲んだ私のためのレセプション」であった。
翌日夕方、私はデンバーからロスに飛んだが、飛行機が遅れ空港に着いたら夜の1時だった。
ロスのホテルに1泊して翌日関空に向けて出発した。

関空に着くと正直、ホッとした。・・・日本語のありがたさを実感した。
約2週間、全く日本語を「聞かない、喋らない」ことの初体験だったのである。
・・・これが51歳の時だったが、実に貴重な経験であった。
(それ以来、頻繁にUSAやEUを行き来したが全く抵抗感がなかった。)
おそらく、私の人生の中でGrand Rapidsを初めUSAの経験は最も大きな出来事だと思う。
お金に換えられない経験であった。

0章 完

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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