『風の見える朝』

No.91 高校生

投稿日:2007/12/07 投稿者:大西秀憲
住んでいる所(姫路)から200mほどの道路沿いに県立姫路H高校がある。
いつも車で前を通っているのだが、最近「ふと」気がついたことがある。
素朴な疑問であるが、考えれば釈然としないので、これについて書いてみたい。

同校の正門から100mほど離れた所に幹線道路と「細い市道」のT字路がある。
この市道は、幹線道路に沿った2mほどの歩道を介してT字路となっている。
歩道は歩行者(朝は主として生徒)もいるが、自転車(通学の生徒)もいる。
朝の通学時間に、教師らしい人が2~3人で歩道に立ち、交通整理をしているのだ。
以前には無かった風景である。
それは、ごく最近に始まったようである。
「それがどうした?」と思われる方も多いと思う。
しかし、私には非常に「奇異」に感じられるのだ。

教師らしき人(これが父兄ならもっと奇異だが)は生徒を安全誘導しているのである!
つまり、交通事故が起きないように生徒を守っているのだ。
T字路に車が近づくと、手を水平に出して車を止めるのである。
そして「生徒」は「ぞろぞろ」と3~4m程の市道を「渡る」のだ。
  ・・・たかだか3~4mの道である!
歩いている生徒も自転車の生徒も、先生に従っている。
しばらく見ていたら、一般人が来た時に先生は、素知らぬ態度である。
要するに、生徒だけを対象にした交通整理なのだ。

これでは、まるで保育園か幼稚園児ではないか!
高校生は15~18才の(社会人になっていてもおかしくない)大人に近い人達である。
立っている先生より大きな身体をした者の交通整理する必要が、どこにあるか!
中学生になれば、交通立ち番など不要である。
まして、高校生である。
この高校は、何を考えて「高校生を対象にした」交通立ち番を始めたのだろうか?
当然ながら、職員の中で当番を決めてやっていることであろう!
職員会議で異論が出ないのだろうか?
「ここは小学校ではない!」と。

また、高校には「生徒会」がある。
「生徒」は何も云わないのだろうか?
「先生、恥ずかしいから止めて下さい!」、「我々は子供でない!」となぜ云わないのか?
先生に安全監視や誘導や交通整理をしてもらうような高校生は、ろくな者にはならない。
なぜ?大人達は、こんな余計な甘やかしをするのだろうか?

余計な事と云えば、こんなこともある。
「中学校の体育祭」で親子競技が普通に行われる。(昔は無かった!)
・・・親子競技は「小学校の運動会」だけでよい。
思春期で、親子の関わりを嫌う年頃の子供に親子競技などは不要である!
ところが中学のPTAはあの手この手で父兄参加の「体育祭」にしている。
昔は中学の運動会など、誰も見に行かず、学校だけで実施していた。
父兄参加になって、何か良くなったことがあるのか?
つまり、中学も幼稚園・小学校レベルになったのである。

ひょっとすると「高校」も父兄の授業参観が「始まっている」のではないか?
もしそんなことになっていれば、気持ち悪いことこの上ない!
そして(冗談と思い)想像するが、高校の体育祭で親子競技が始まっているのではないか?
親子競技は無いまでも、父兄参加の体育祭になっているのではないか?
とにかく、このような冗談を想像するほど、大人達は寄ってたかって子供扱いしている。
そのうち「大学の授業参観日」が始まるかもしれない?
そして大学の「三者面談」が始まったりして・・・
悪い冗談だが、会社の入社式に「父母」が出席したり・・・あァ怖わ!!

身体は大きくなり、見てくれも格段に良くなり「ハンサム・別嬪」になった。
しかし、その精神年齢は信じられないほど、低くなり続けている。
いわば、保育園児か幼稚園児が「身体だけ」大きくなったのである!
これらが大量に「レジャーランド化した大学」に遊び、そして益々子供になって社会に出る。
しかし、子供達に罪はない。
悪いのは、いつまでも異常に子供扱いして甘やかす、大人達である!
全ては、心ない大人達が、何も考えずにしていることである。

高校生のために「交通立ち番」している情景をみて以上を思った。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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