No.96 さんまい
投稿日:2008/05/09
お菓子が入った大きなお盆を持ったおじさんが、前に出てくると子供達は廻りに群がった。
子供達はお菓子を貰うために集まってきたのである。
おじさんは、すぐには配らず、十分な時間をみて子供達を「じらして」から配り始めるのだ。
この時のおじさんは「王様」のようで、子供達は王様に仕える召使のようであった。
何しろ、どの子供にどれだけお菓子を配るかは、全ておじさんの「胸三寸」である。
子供にすれば、誰よりも自分が多くのお菓子を貰いたい。
これは至極当然の心理である。
「こらこら、ちゃんと並ばんかい!、順番順番!」などと云いながら子供達を御するのだ。
子供達も、我先にと云う行儀の悪い子は居なかった。
ただ、要領の良い子はいつの時代にも何処にでも居る。
右手で貰って、また左手を出して2回貰う子供も少数居た。
お菓子を貰った子供達は、何事も無かったようにすぐその場から散る。
以上の情景は何と思われるだろうか?
実は昔の田舎の「葬式」のひとコマである。
昔と云っても、昭和20年代から30年代であるから、約50年ほど前のことである。
配るお菓子は葬式のお供え物である。
現在のように物が豊かな時代ではなかったが、それでも葬式にはお供え物に気を張った!
そのお供え物のお菓子を葬式終了時に配った(振舞った)のである。
現在の感覚では信じられないだろうが、お菓子は高級品であった。
と云っても、現在の美味しいお菓子とは全く比較にならない、不味い「煎餅」の様な物だ。
それでも当時の子供達は日常、お菓子を食べることなど出来なかった。
売っていないし、お金も無いから買うこともできない。
だから、葬式で振舞われる「お菓子」は子供達にとって「夢」のような物なのであった。
お菓子が振舞われる場所は「さんまい」と云った。
私の生まれた所は「火葬」であった。
葬式は家でするが、火葬にする場所まで大勢が一列縦隊になって進んだのである。
「青竹」に吹流し、「しきみ」、「六地蔵」、「お供え」などなど持つ人の役割があった。
縦隊の真ん中は「輿」である。
輿は「棺おけ」を運ぶ運搬車であり、複数の人が家から火葬場まで担いでいった。
輿を担ぐ人を「輿係り」と云った。
・・・現在でも田舎の葬式には形だけの「輿係り」が「白い着物と袴」を着て棺を持つ。
輿の「しつらえ」は立派なもので、見事な彫刻が施されていて、尊厳があった。
要するに、亡くなった人を乗せて「西国浄土」へ運ぶ、最後の乗り物なのである。
「さんまい」には広場があった。
広場の一角に「石の台」があった。
この台の上に「輿」を置いて、最後の儀式が行われた。
・・・現在、斎場において行われている、最後のお別れと同じである。
因みに、葬式に使う「輿」は「さんまい」の広場の一角にある小屋の中に置いてあった。
また、どう云う訳か広場の周りには「多くの桜」があり、春は見事であった。
だから村の大人達は「どうせ死ぬなら春がエエなあ!」といつも言っていた。
「さんまい」に来た子供達は、最後の儀式が終わるまで、全く騒がずに待っていた。
そして、いよいよその時がきたのが冒頭のシーンなのである。
私は「さんまい」がどのような漢字を書くのか解らない、またそれが方言かどうかも不明だ。
ところが随分以前に「水上勉」さんの小説を読んでいると、そこに「さんまい」が出てきた。
それで私は「さんまい」は標準語だったのか!と思ったりした。
しかし考えてみれば水上勉さんは確か「福井県嶺南」地方のお生まれだったと思う。
ならば、兵庫県から近いから一部近畿地方の方言かと思ったりした。
昔の年寄りは「はよ、さんまいに行きたいワ」が口癖だったが、要は死にたいと云う事だ。
「さんまい」は人生の幕引き場所であった。
昔の村は「村毎」に火葬場を持っていた。
特に私の村では、なぜか?村に2箇所の火葬場があった。
・・・1箇所は私の母方の持ち山にあり、もう1箇所は私の家の持ち山にあった。
火葬場と云っても、地面に穴を掘って石垣で補強しているだけのものである。
この穴に十分な「藁」を敷き、更に木を井桁に組んでその上に棺を置き、更に藁で覆う。
要するに、藁の厚い層を作って、火が逃げないようにして温度を上げるのである。
ところが、これが中々難しく、簡単には焼けないのである。
だから親族が交代で夜中に焼き作業に行くのである。
これは実に大変な仕事で、人をきれいに焼く仕事は非常に難しい!
匂いも激しいが、青白い火が出て、余程肝が据わっていないと、一人では出来なかった。
必ず夕方に火を付けるが、燃え始めると村中に強烈な匂いが漂った・・・
ともかく親族が(つまり素人が)朝までかかって一応全てを焼き、骨にするのである。
酒をあおりながらやっていたが、大変な役割であり、今の人に中々出来ないだろう・・・
このような葬式風景が私の村では昭和46年まで続いた。
この最後となった村の「さんまい」での葬式が、私の母方の祖母(97歳)であった。
これ以降、町共通の斎場が完成して、全ての火葬がプロによって行われるようになった。
それと共に、家で行われる葬式で「お菓子」が配られることも無くなった。
いつの間にか、田舎も豊かになったのである。
「さんまい」の桜満開の中の「お菓子配り風景」が、今でも(昨日のように)目に浮かぶ。