『風の見える朝』

No.93 大村益次郎

投稿日:2008/01/21 投稿者:大西秀憲
大村益次郎は私が好きな歴史上の人物の一人である。
歴史好きな人なら誰でも知っているが、そうでない人はその名さえ全く知らない。
(靖国神社に立っている像が大村益次郎である)
大雑把に云えば、彼は明治維新の革命(ほとんど無血革命)最大の立役者である。
幕末、時代変革のヴォルテージは上がっていたが、革命の背景は軍事力(武力)である。
体制を変えるためには、要するに(武力で)幕府軍に勝たねばならないのである。
・・・いくら奇麗事を並べてみても、負けたら終わりである。
     「勝てば官軍」との名言がある所以である。
もし大村益次郎がいなかったら、薩長軍は幕府軍に負けていたかも知れない!
そうすると、明治維新はもっと先に延びたであろう。
所詮一人の人間である、しかし偉大な人であった。

大村益次郎が歴史の表舞台で活躍したのは実に短い。
彼が「長州軍」を率いて幕府征長軍と戦ったのが時代へのデビューであった。
だが彼は槍や鉄砲を持って、全軍の先頭に立って戦った訳ではない。
彼は常に後方の安全地帯に居て、常に全体の状況把握と的確な作戦命令を出していたのだ。
要するに彼は「最高作戦本部長」であった。
彼が立てた作戦は、ことごとく成功し、長州の3方面に於ける勝利が維新の原動力となる。
この時代、どの藩も幕府も前時代的な軍で、刀・槍を持って鎧を着ていたのである。
例えば、鉄砲などは未だ火縄銃で、しかしそれすらも実際に戦で使った経験が無かった。
全国の平均的な藩の軍事力の実態は、大体そのようなものであった。
このような状況の中で、彼は長州に於いて「近代的な陸軍」を作ったのである。
この近代的な陸軍を手足の如く駆使して幕府軍と戦ったのである。
・・・つまり、負けるはずが無かった。

大村益次郎が創った軍隊は、ほぼ現在の軍隊に近い。
このため日本陸軍の創設者と云われる。
兵は極めて軽装にし、最新の銃を輸入して武装した。
また、火器の装備を最新式で固め、射程距離・命中度は幕府軍と比較にならなかった。
兵の軍事訓練も徹底して行い、欧州の近代的な「兵制」と指揮・命令系統を創ったのである。
普通、軍隊は(例えば師団は)師団長が指揮して戦う。
しかし師団長は自分の意思で勝手に戦うのではない。
師団長は「作戦命令」によって戦うのである。
この作戦命令を考え立案するのが「参謀本部」で、長が参謀本部長である。
大村益次郎は、与えられた目的を達成するため、軍隊を道具のように使った。
彼の最大の特長はこの驚くべき合理的思考回路を持っていたことである。
おそらく彼の頭の中では、作戦を立て終わった時、既に戦は終わっていたのではないか?

大村益次郎は薩長同盟の後、官軍の参謀長になり、官軍(つまり日本軍)を指揮した。
このため長州は「陸軍」、薩摩は「海軍」と大きく役割が分かれることになった。
それほど大村益次郎の作戦と指揮は卓越で、薩摩陸軍も一歩引かざるを得なかったのである。
この官軍が東海道を東に進んで行き、やがて上野彰義隊の戦が行われた。
この時、江戸城に居た彼は上野方向からの「ポン、ポン」との音を聞き「始まりましたナ」と
一言云った。
そのあと懐中時計を取出し「○時には終わるでしょう」と事も無げに言ったという。

では大村益次郎はどのような人物だろうか?
写真が残っている。
異様な顔である、特に異常に頭が大きく、前に突き出ている。
彼は元々軍隊とは無縁の人であった。
彼は代々医者の家系に生まれ、彼自身も医者である。
大村益次郎は後の名前で、元々は「村田蔵六」と云った。
子供の頃から秀才で、長じると大阪にあった有名な緒方洪庵の「適塾」に入った。
ここでもその才を発揮し、やがて「塾頭」を務めた。
・・・適塾は当時全国から秀才が集まり、最新の医学を学んだのである。
     因みに適塾はその後「大阪大学医学部」になっていく。
適塾と長崎での学問を通じて欧州の科学技術や軍事について造詣を深めていったのである。
医者から軍事にその才能と適性を見出されたが、やはり彼は当時比類なき頭脳を持っていた。

このように書くと大変な堅物のように思えるが、情熱も豊かであった。
ドイツの医者で「シーボルト」と云う名前をご存知だろうか?
長崎に住んでいた医者であり、多くの日本人医者を育成した大功労者である。
日本地図をめぐる「シーボルト事件」で国外追放になったが、彼には娘があった。
夫人は日本人で母と娘が日本に残された。
この娘の名を「イネ」と云う。
イネは長じて医学を志し、日本人初の「女医」になった。
そして「イネと村田蔵六」が長崎で運命的に出会い、公私の良きパートナーとなった!
蔵六には国元に妻子があったが、事実上はイネが妻の如くであった。
利発で明るく仕事が同じであるイネを、非常な情熱を燃やして愛したのである。

歴史は人が創るものである。
ただし、今そこで演じている人には歴史は解らないし見えない。
そして、人には必ず役割がある。
自分がどんな役割を任されてしているのか?その時には解らないし、見えない。
村田蔵六=大村益次郎は、突然歴史に現れて、極めて重要な役割を演じて、突然消えた。
まるで歴史が「その人」を求めていたかのように。
大村益次郎は「ねたみ」によって襲われ、その傷が元で「呆気なく」亡くなった。
しかし大仕事を成し終えた満足感で人生を終えたと想像する。

司馬遼太郎さんが小説で村田蔵六・大村益次郎を書いている。
「花神」と云う本なので、興味ある人はぜひ読んで下さい。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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