No.3 第1章 技術のおいたち(バックボーン)
投稿日:2009/05/27
私は「技術者もどき」か「技術者のはしくれ」だと思っている。
なぜなら、世の中には凄い能力と凄腕の、正に技術者だと云うに相応しい人が多く居る。
・・・だが私は、技術は実際に人の(世の中の)役に立ってこそ技術だと思っている。
従って、そのレベルで比較すれば(学歴もない)大した技でもない、私は技術者と呼べない部類になる。
しかし、そんなつたない技術でも、私が居なければ今日のテクノスジャパンの製品は絶対に存在しない。
・・・大きな声で技術とは云えないが、それでもマジックでは独自製品は、生まれない!
そのような「もどき技術」がどこから来たのか? を説明するために「おいたち」を書いている。
(ベンチャー企業の社長は、全て自分で「発想し、開発・試作する」以外に方法は無いことを云いたいのだ)
前号では会社勤務や店員の仕事を通じた、私の電気に関する生い立ちを「かいつまんで」書いた。
この(その2)では技術の成長と熟成となるサラリーマン時代について書く。
私が勤務した、NEC兵庫における私の仕事は生産設備の稼動立ち上げとメンテナンスであった。
何しろ極めて短い期間で大量、多種類の生産設備を立ち上げ、新設工場を稼動させるのだから大変である。
・・・おそらく、新規製造し、導入設置した設備は数十種類、2~3百台はあっただろう。
完成した設備を順次工場に導入して製造部門の作業者に教え、生産を行うのである。
経験者なら分かるが、新設備は「初期故障」がよく起こり、このトラブルを短時間で解決しなければならない。
信じられないかもしれないが、当初これらを「私1人」で全てを担当したのである。
従って、一台の設備のメンテに時間をかける訳にはいかない。
ここで「電器屋」での経験と「大将の教え」が役に立ったのである。
大将の(テレビ修理の)教えは、現場に行くまでに「原因を推定」せよ、そして「30分以内で直せ」であった。
そのためには、各メーカー各機種のテレビの回路図が、全て頭に入っていなければできない。
・・・修理依頼の電話を受けた瞬間に、頭にその家のテレビの回路図が浮かぶように訓練した。
私は工場でも、この通りにした。
(メカニックな部分は目で見ることができるが、電子回路は見えないので、そう簡単にはいかない)
設備を見る前に「原因を推定」するためには、回路図が全て頭に入っていなければ不可能である。
ここで私が身に着けたことは「頭の中に整理だんすを持つ」方法であった。 ・・・これは非常に重要である!
(要するに、頭の整理方法である)
それは、整理だんすの「引き出し毎」に、インデックスを付けて情報を収納するのである。
このようにすれば、その都度必要になった情報を取り出すのに非常に便利である。
・・・会社であるから当然勤務時間は決まっていたが、上記の訳で私だけ「治外法権」であった。
何しろ、高額な高性能設備が止まれば、生産がストップするのである。
また、新設備の立ち上げには非常に多くの時間がかかる。
これらを1人で全てやるのであるから、時間がどうの、時間外や、休日などと、とぼけたことは云っていられない。
徹夜はあたりまえであった。
そのような超人的なスケジュールの中で更に、東京に出張して新設備の調整や検査を行うのである。
移動時間を削減するため、当時では私だけが「飛行機」使用を特別に認められていた。
・・・昭和45年ごろでは未だ(一般社員の)飛行機利用はメジャーではなかった。
(このようにして、仕事をやっている内に過渡期を過ぎ、設備も安定稼動に収斂していった) ・・・その後、設備メンテで仕事のコンビを組んだのが、現製造管理担当取締役の内海久司である。
少し変わった経験もした。
それは「計量管理」である。
立ち上げ直後の工場には、計量管理の機能も部署も無かった。
どう云う訳か? 超忙しい私に3ヶ月で「計量管理の仕組みを作り、実務を開始せよ」との社命が下った。
(それは、電電公社の工場監査で不可欠だったからである)
もちろん私は計量管理など聞いたこともなく、「仕組み」を作るにも、何も知らなかった。
そこで私は「本社の三田事業場」に行き、計量管理部隊で直接教えを受けた。
・・・この時親切に指導頂いたのが「里本さん」で、昨年逝去され、私は鎌倉のご仏前で御礼を述べた。
要するに工場で使用する「計器」が正しいか否か?を管理するのである。
それには「トレーサビリティ」と云う考え方をとる。
要するに「原器」を揃えて、それと現場の測定器をつき合わせて検査するのである。
これを定期的に「システマティック」に実施するようにするのである。
測定器と云っても幅が広い、重量・長さ・温度・湿度・抵抗・電流・電圧・など多数ある。
私は「トレーサビリティ」を実体験した成果が、後ほど色々な場面で非常に役立った。
とにかく、このようにして「ゼロ」から工場の計量管理を作り上げ、定着させたのである。
これで学んだことは「計量は、すべての管理の、基の基」と云うことである。
やがて生産も軌道に乗りだして、技術の陣容も整ってきたので、次に私がやったことは「設備設計」である。
私は27歳で「技術主任」になり、そして30歳の時、新設した「電気技術グループ6人」を率いた。
・・・この時(NEC技術短大を卒業して)グループの一員になったのが、現技術担当取締役の井上和雄である。
私は、自社工場で使用する設備は「自社製」に切り替える方針を出した。
設備の良し悪しは工場の生産そのものであり、品質・歩留まり・コストの全てを左右する。
この頃から設備には「マイコンやパソコン」を積極的に採用し、更に「ロボット」を配置した全自動ラインを担当した。
実は、この3年前からマイコンに(と云う言葉に)非常に興味を持ち、勉強を開始していた。
・・・(NECマイコンクラブに入会し)日曜日は大阪・名古屋に自費で勉強に行き、帰って社内で講習した。
会員になると、CPUを始め周辺デバイスのマニュアル(無料配布)を使ってセミナーが行われるのである。
「セミナー」は、どの会場も毎回超満員で「会場は熱気でムンムン」、参加者は皆真剣そのも
のであった。
(普通のセミナーは後の席から埋まるが、このセミナーは前から埋まった)
・・・会場が満席(立ち聴講の猛者も居た!)になると、交渉して「廊下で聴講」する人も多く居た。
(もちろん講師の顔も見えないし、テキストも無いが、漏れてくる声をノートするのである)
質疑応答の時間になると、収拾が付かない位に、延々と質問が続き、しかもそのレベルは非常に高かった。
(当時私は24歳、参加者も同年代で、電子回路屋はCPUの出現に無限の可能性を感じていたのである)
・・・この熱意が日本の技術を世界一にしたのだと思う。
この普及・啓蒙活動を1社の費用で行ったNECは偉い!と思う。
因みに私はNECマイコンクラブの179番目の会員だった。 ・・・その後、会員は数万人に増加した。
(当時、まだ珍しいCPUは8080で、講習にはTK-80を使い、言語は「マシン語」であった)
・・・NECからパソコン(PC8001)が発売される前のことである。
以下は、次号(その3)で述べる。