『やってみなわからん!』-私の体験-

No.4 第1章 技術のおいたち(バックボーン)

投稿日:2009/06/26 投稿者:大西秀憲
前号(その2)では工場において電気グループを任されて、設備の社内製造に邁進するまでを書いた。
そのような中、私に大きなチャンスが巡ってきたが、ここではそれ以後について書く。。

そして私は32歳の時、技術屋として生涯の思い出となる、大プロジェクトを任されたのである。
それは「電気二重層コンデンサー」(製品名:スーパーキャパシタ)の一貫量産ライン設計と生産立ち上げである。
現状は月産5万個程度であったが、これを一挙に「月産100万個」の自動ラインを作るのである。
(実は、そのプロジェクトは過去に失敗していた)
そして「全てを任せる」とのことで、私に「白羽の矢」が立ったのである。
命令は「来年3月から生産開始せよ!」であった。 私が聞いたのは8月だったから「約6ヶ月」での構築である。
・・・上司から聞いた時、私は「待ってました!」と思った。  ・・・実は密かに自分で構想を描いていた。
そこで私は次の条件を出して会社トップの了解を取った。
  1.(任せる以上)誰も絶対に口や手を出さないこと。
  2.全ての金(設備資金)の使途を任せ、一々稟議不要とすること。
  3.出張費使用、時間外・休日勤務を含め「治外法権」とすること。
  4.但し、3月20日には全ての設備を稼動して生産を始めること、投資金額を予算内に納めることを約した。
私は100%の自信があった訳ではない、5分5分の感覚であった。
しかし、この頃の私は設備構想と、その実行と、そのための人脈には強い自信があった。
約6ヶ月の間、私は会社に居るのが少なく、全国の(設備屋・加工屋)を飛び回っていた。
・・・1台や2台の自動生産設備を作るにも半年程度はかかるものである。
ましてや、多くの自動設備からなる「自動生産ライン」を半年で作るのは、尋常な手段では不可能だった。
・・・生産技術をやった人なら充分に理解して頂けると思う。
そして私の構想通り、ラインが完成して約束より10日早く、3月10日には全設備を稼動させることができた!
この時の仕事の面白さは、生涯忘れることはないだろう・・・
このような経験を通じて私は、(電子回路屋)から「生産技術屋」に転進したのである。
(ここで私が身に着けたことは「生産をデザインする」手法であった)


私は34歳で「技術係長」になり、そして37歳で「技術課長」になった。
その頃、やっていた仕事は「新事業」プロジェクトであった。
・・・当時私は「我孫子」に居ることが多く、管理職昇格の内示も部長から電話で聞いた。
これも大きな仕事で、ハイブリッドIC基板事業であり、大きな設備投資と多くの生産設備が必要であった。
そして新事業は「新工場」で稼動するため「工場建設」も私が責任者として指名された。
つまり、入れ物から中身まで全てを、一人で行うのである。
更に、新事業は大容量電気炉を多く使うため、電気の受電を「高圧から特別高圧」に切り替える必要があった。
このための「変電所」建設も私が担当した。
なぜなら、私は昭和47年(25歳)から工場の「電気主任技術者」を兼務していたから、当然のことであった。
・・・電気主任技術者は電気事業法で定められた、電気需要設備に関する法的な会社の責任者である。
(そのために、国家試験がある)
このような中でも、私は約45名の部下(生産技術及び工務部門)を率いて、日常の業務を抱えていた。
この時の忙しさはとても言葉では表せない。
「新事業の生産設備ライン+工場建設+変電所建設+生産技術部隊の課長」を全て1人で同時進行である!
・・・そんなある日、私は突然「いぼ痔」になった。 頭の頂上をキリで刺すような痛みで耐えられない!
   しかし入院などは許されず、私は人伝に「入院なし保険外治療」を探し当て、そこに通って治癒した。
   (この時のイボは5個もあり、大きかった)
(人間、体力の限界を超えると自動的に「痔」などで警告すると云うことが分かった)
このようにして、私が40歳の頃には新事業も新工場で軌道に乗り、私の役割は無事終わった。
(ここで私が身に着けたことは「マルチタスク」と「物事を俯瞰する」手法であった)

以上のように私は幸運にも大きなプロジェクトを任され、生産技術者として充分な満足を味わった。
私は生産技術者は最も「つぶしが利く」技術だと思っている。
電子回路・機械・ロボット・センサー・画像処理・通信、など多くの技術を複合化して構築するのが生産設備である。
これを担当し、リードしたことが私のサラリーマン時代の最大の財産である。
もし、私が生産技術をやっていなければ、テクノスジャパンの設立はなかっただろう!

更に幸運なことは、40歳から「販売事業」に携わったことである。
特に平成元年から約4年間、姫路営業所に勤務し所長を担当した。・・・(営業所は14名のスタッフ)
この4年間の営業経験で、私が全く経験したことがない「世界」を実務で経験した。
この収穫は非常に大きかった。
つまり、商売は何をしたら良くて、何をしたらダメか、と云うことが「マクロとミクロ」で実感できたのである。
そして、この間に姫路に於いて「多くの人脈」を得た。
要するに、姫路に「知己と地の利」ができたのである。
このように考えると、私が独立するように、全てのお膳立てを「会社がしてくれた」ように思われてくる。

そしてついに私は平成5年1月に退職(早期退職制度を適用)した。・・・45歳であった。
ここから、私は会社設立の準備にかかるのであるが、それは次号で述べる。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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