『やってみなわからん!』-私の体験-

No.9 第3章 開発

投稿日:2009/11/30 投稿者:大西秀憲
前号でMCTOS開発のきっかけについて書いた。
そして、手術の体験と、それによる開発中断についても書いたが、「貴重な体験をした」ことに触れた。
全くプライベートな事であるが、私の仕事と密接な関係がある内容なので、ここでは体験について書く。

平成9年1月、かかりつけの医者に診てもらったら「日赤」で精密検査を受けるように云われた。
そして3月に1週間(手術のための)検査入院をした。
それは「脳の血管造影検査」を始めとする、種々の精密検査を受けるためである。
脳の血管造影検査は大変な検査であった、とにかく医者が3~4人とナースが6人ほど付く検査である。
・・・この検査の前には2回も医者の説明があり、誓約書に署名を求められた。
(要するに、何かあっても文句は云わない、と云う確約である)
太ももの付け根の動脈からカテーテルを挿入し、心臓を通って首の頚動脈を通り、脳の中へ到達させるのだ。
これが天井吊りのモニターテレビでよく見える。

・・・ここからが問題である。
「今から始めるので動くな!数を20まで数えよ!」と告げると、手・足・頭を5人がかりで押さえつけた。
その瞬間、頭の中が「かア!っと」熱くなったかと思うと「ガン!ガン!ガン!」と頭の中で衝撃が走った!
そして次の瞬間には「頭の中を手でかき混ぜているのか!」と思うような、耐え難い状態になった。
数は6まで数えたのは覚えている・・・しかし、その後は「意識」が「すうーと」薄らいでいった。
何かしら、深い深い谷底に無重力で落ちていくような感じであった。
その時!「走馬灯」が見えたのである!・・・死ぬ前に見えると云われている、あれである。
・・・自分の人生が一瞬に出てくるそうである。
本当に見えた。しかもカラーであった。
何が見えたか?、「会社の風景・仕事の風景・開発している姿」だけが「パッパッパッ」と鮮やかに出てきたのだ!
(家族や親兄弟は全く出てこなかったのである)
やがて、ほとんど何も分からなくなったが、そのうち「終わりましたよ」と云う声が聞こえた。
そして全身を押さえていた手が開放された。

大動脈に穴を開けているので、この後は24時間、絶対に動かないように安静にしていなければならない。
要するにベッド上で「気を付け」をした状態で、上を向いたまま動かないで居るのである。
「動いたら血が噴き出す!」と云われると、動けなかった。
その上、ひざから腰にかけて「重り」を置いているので、動こうにも動けない。
・・・寝返りを打てないので、ほとんど一晩寝られなかった。
次の日の朝が来て本当にヤレヤレと思ったが、次なる問題が出てきた。
ナースが「朝食」をベッド横の床頭台まで持ってきてくれる。
しかし、そのままである! 腹も減っている! 食べたい!
起き上がる事も、体位を変える事もできない状態で、どのようにして「飯」を喰えと云うのか?
私は手を伸ばして床頭台を引き寄せ、上にある朝食トレイに見当をつけて、手を突っ込んで、そして掴んだ。
もちろん見えないので、何か分からないが、口元に持ってくると「ほうれん草のおひたし」であった。
当然、醤油もかかっていなかったが、口に入れて噛むと本当に美味かった!
ご飯も手づかみで食べたが、さすがに「味噌汁」は食べられなかった。
・・・仰向けの寝たままで食事をする難しさをこの時初めて体験した。・・・本当に難しいものだ。

私は只ひたすら寝ているしかない時間を利用して、先ほどの「走馬灯」を冷静に振り返ってみた。
脳の血管の細部を撮影するため、血管内に「造影剤」を注入するのだが、その間「脳が酸欠」状態になる。
この時に意識が薄れて行く中で、走馬灯を見るようである。
その内容は、今一番自分にとって大切なこと、一番気になっていることだと思う。
一番大切であるはずの家族より、仕事のことが「究極の状態で」優先されたのである。
・・・このことは当時、家内や子供には話せなかた。
そして私は「仕事に生きるしかない!」ことを、この時に覚悟したのである。
・・・私は冷たい人間だなアと思った。
(検査からみれば、本番の手術は楽なものであった。)
手術や麻酔の影響が薄らいだ夏の終わり(平成9年8末)ごろから、私は猛烈に開発を加速した!
(もう、全く迷いは無かった)
・・・従って、「人間万事塞翁が馬」と前号で書いたのである。

以下、次号。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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