『風の見える朝』

No.30 立派な日本人『肥沼信次氏』について

投稿日:2002/07/25 投稿者:大西秀憲
最近テレビで見るまで「肥沼信次」と言う人を全く知らなかった。
「こえぬま のぶつぐ」と読む。50年以上前に亡くなった人である。
私は放送を見た結果、知らなかったことに恥ずかしさを感じた。
なぜ知らなかったか?それは日本では彼について全く教えなかったからである。

彼は第二次世界大戦時のドイツにおいて、多くのドイツ人を助けた医者である。
彼は医学の研究をする医者であり、日本からドイツに留学して研究を続けていた。
天才的に数学ができる非常に優秀な人材であった。
やがて、ナチスドイツが敗れて戦争は終わったが、不衛生と貧困の中で「チフス」が大流行した。
人々は為すすべもなく、毎日バタバタと多くの人が死んでいった。
肥沼信次はチフス患者を救うため、医療活動を開始した。
病院も無く、ベッドも無く、薬も無く、ほとんど何も無い状態で彼は黙々と治療をした。
看護婦が尻込みをする、汚い・臭い・劣悪な所へ、彼は平気で入って行ったという。
彼自身、食うや食わず、不眠不休であった。
一人でも多くの命を救いたい! その一念が彼をささえた。

しかしながら、約半年目に彼はチフスに感染してしまう。
(人のことだけを考えて、自身は無防備であった)
ここからが、彼のすごい所である。
彼は倒れた日から、自室に閉じこもり、やがて亡くなった。
自分でチフスの治療薬や注射を使うことを拒否したのである!
「薬は他の人に使ってくれ」と彼は言ったそうである。

しかし、生前の彼に治療を受けて助かった人は実に多く、人々は肥沼のことを忘れなかった。
「自分の命と引き換えに、私達を助けてくれた日本人・肥沼信次」。
彼らは今でも肥沼に対する感謝の心を忘れず、彼の墓参りを欠かさないという。

肥沼はドイツに居ても日本を忘れたことがなく、いつもドイツ人に話していたという。
「富士山と桜を皆さんに見せたい」と。
ベルリンの壁が無くなってから、その地へ肥沼の実弟氏が桜の木を送った。
毎年春には見事に桜が咲き、人々は肥沼を偲んで感謝するそうである。

こんな立派な日本人が居たのです。
なぜ子供達に教えないのでしょうか? 日本人の誇りとして。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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