No.52 石炭の痛い思い出
投稿日:2004/03/30
中学校の時、冬の暖房は「石炭ストーブ」であった。
教室のほぼ真ん中に鋳物製のストーブがあり、煙突が窓の外に伸びていた。
このストーブは「ビール樽」の形で、上に蓋があり、横に扉がついていた。
ストーブの上には鍋があって、音を出しながら湯気が出ていた。
火力調節をしないと燃えすぎて、ストーブが「真っ赤に」なるときがあった。
そんなときは、ストーブに近い席は熱くて熱くて困ったものである。
しかし普段は、ストーブの近くの席に当たった者は、幸せの絶頂だった。
信じられないかもしれないが、私たちの教室は『1クラス55人』だった。
だから、教室の一番前から、一番後ろの壁板ギリギリまで、ぎっしり座った。
とにかく、教室の一番隅の席と、比べると天国と地獄の差であったのだ!
寒い、寒い冬に、暖かい所で過ごせる幸せ!何物にも代えがたかった。
この席替え指定は、担任の先生の「鶴の一声」だった! 正に天の声である。
とにかく学校に着くと皆ストーブの周りに集まってワイワイやっていた。
当時の教室には何もないが、ストーブがあるだけで、それが皆の中心になった。
だから冬の朝は学校に行くのが楽しみであった。
なぜなら、家には暖房が無かったのだ! どの家も同じであった。
石油ストーブもガスストーブも、電気ストーブも無かったのだ。
家庭で暖房といえば、「堀ごたつ」か「湯タンポ」ぐらいであった。
・・・堀ごたつも電気ではなく「練炭」か「豆炭」であった。
以上のような訳で、学校の石炭ストーブは、夢のような暖房であった。
ところで教室のストーブは「生徒の当番制」で運営されていた。
当番は朝早く来てストーブを燃やし、灰をきれいに掃除してから帰った。
この当番は3人で行っていた。・・・あいうえお順
簡単に言うが、石炭を燃やすのは大変難しい!
とにかく、なかなか石炭に火がつかない。
最初は紙を燃やし、小さな木を燃やして種火を作り、それで石炭を燃やす。
これが、日によっては、なかなか上手く燃えないのだ・・・
石炭を燃やすのにも個人差があり、得て不得手が当然あった。
皆が教室に出てきているのに、未だストーブが燃えない当番もよくあった。
そうなると皆の顰蹙ものだが、そんな時は上手い者が焚いてやったりした。
ある朝、教室で担任の先生が私たち当番3人の名前を呼んで、前に並んだ。
いきなり、頭の頂点に物凄い激痛がはしり、目の前に「星が」飛んだ!
3人が力一杯「そろばん」で頭を叩かれたのだ。
教師用の60cmぐらいある、大きな5つ玉のそろばんである。
そろばんの玉は尖っている!それが何個も頭に食い込むのである!
このときの痛さは今でも忘れない!
とにかく何も言わずに、いきなり先生が頭を力一杯に叩いたのだ・・・・
3人を叩いてから、先生は理由を言った。
それは私たち3人が「ストーブの後始末」を忘れて、帰ったためであった。
その時先生が大きな声で怒られた内容は次の3点だった。
○ 決められたことは必ず守れ!
○ 学校が燃えたらどうするんだ!
○ 人の迷惑を考えろ!
とにかく、全部私たち3人の連帯責任であり、全て3人が悪かったのだ。
今から43年前の冬だったが、頭の痛さと共に、忘れない思い出である。
この「出来事」から後、当番で忘れる者は居なくなった!
ここぞ!と言う時に、頭から血が出るほど叩くのも、大変重要な教育だ!
百回、訓示を垂れるより一撃で43年の効果がある。
昔の先生は偉かった。