『風の見える朝』

No.51 地図と日本人

投稿日:2004/03/01 投稿者:大西秀憲
地図と日本人について書く。
江戸時代の終りごろ多くの外国艦船が日本にやってきた。
彼らの(彼の国の)目的は水や食糧の供給が表向きの理由であった。
また、寄港や通商が彼らの大義名分の目的であった。
しかし、本当の目的は別にあった。
それは、日本を「植民地」にすることであった。
だから、われ先にと欧米諸国は、日本に押し寄せたのである。
日本に来る前に、既に彼らは、アジアの道筋のほとんどの国を植民地にしていた。
(中国も同じである。)そして、阿片をばら撒かれて、無茶苦茶な国になっていた。
このころの欧米は「帝国主義」の権化、阿修羅となっていた。
とにかく、目を血走らせて、片っ端から弱い国を、手に入れて行ったのである。

そんな彼らが日本に来て驚いたことがいくつかある。
  1.礼儀正しく、清潔で、勤勉であること。
  2.多くの人が文字の読み書きができること。
  3.中央集権の整備された政治・行政の組織を持っていること。
更に、彼らは日本と接する内に、腰を抜かすほど驚いた事がある。
それは「立派な日本地図」を持っていたことであった。
その地図は先進国である欧米人の彼らが見ても、素晴らしく正確な地図であった。
「こんな東洋の最果てに、このような高度な文明があった!」と。
そして、彼らは日本を侮れない国だと悟ったのである。
その結果、やがて彼らは「通商条約」を締結しよう!と交渉を始めた。
要するに、国として認めたのである。 ・・・・不平等な条約ではあったが。
このことは非常に大きな意味があると思う。
なぜなら他のアジアの国、アフリカ、南米を見るとよく解る!
全て、欧米諸国に食い荒らされて、一人前の国として対面を維持していた国は無い。
要するに、欧米人はそれらの国を、国として認めていなかったのである。
「日本だけであった」・・・今から200年近くも前の話である。

当時の日本政府(江戸幕府)が立派な日本地図を持っていたのは無言の力になった。
このような立派な地図を作ることができる民族を侮れない、と彼らは思った。
当時、世界的に見ても、地図を作ることは「最先端技術」であった。
言うまでもないことだが、この日本地図を作ったのは「伊能忠敬」である。
50歳を過ぎてから本格的に天文学の勉強を始め、そして地球に興味を持った。
地球の大きさを知りたい!これがきっかけで、経度の測量に乗り出した。
その結果、日本全土の地図を作成するという、桁外れの事業に着手した。
そしてついに彼は70歳台半ばにして、地図を完成させたのである。
伊能忠敬だからできたと言える。

しかし私は当時の学問のレベルが非常に高く、しかも学問の層が広かった事を思う。
忠敬は経済的には恵まれていたが、特別の人ではなく、市井の人であった。
所謂、庶民でも、高度な学問をする人が多くいた事に注目すべきである。
要するに、いたるところに、学問を教える「塾」があったのだ。
そこでは外国の書物も使って、多くの人が学んでいたのである。
このことは、大変な驚きである!
なぜなら、学問をするうえでは、先ず「読み書き」ができなければならない。
当時、日本の人口は約3,500万人。 
60~70%の人が文字の読み書きができたと言う。・・・これは驚きである!
このような国は当時、世界には無かった。(欧米を含めても)
従って、知的な国民のレベルがあり、高い学問の層があったことで地図ができた。

明治維新まで日本は後進国ではなかったのだ。
江戸時代を含めて、当時の世界の先進国に勝るとも劣らない国だったのである。
しかも、欧米以外では、世界で唯一の国であった。
これは、現在の日本の近隣諸国やアジアの諸国がどのように言おうと事実である。
このことに日本人はもっともっと自信と誇りを持って良い。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。