No.86 きのうの村
投稿日:2007/08/01
日本中どこにでもあった田舎の生活を懐かしみながら書いて見たい。
昔の農家は全て「南向き」で、玄関入口に向かって左側には必ず「縁側」があった。
縁側の役割は「現代の合理性」から云えば贅沢であるが、生活から云えば便利であった。
縁側の外には「雨戸」が立ち、内側には「部屋の障子戸」がある。
要するに長細い板敷きの空間である。
雨戸を開ければ、板敷きの腰掛になるため、村の親しい人達との「社交の場」となった。
ここで腰掛けたまま、「番茶」を飲みながら暫し雑談したのである。
ところで、縁側にはもう一つ重要な役割があった。
縁側の下は地面まで空間がある。
ここに金網を張って、ニワトリを飼うのである。
もちろん「可愛くて」鶏を飼うのではない! 「卵」を食べるためである。
昔の日本では「卵」は非常に貴重で重要な「栄養源」であった。
従って、普段はめったに卵を食べることは無かった。
病気になれば、早く治るように「卵」を食べることができた。
・・・今は卵を食べると「病気になる」と云う。・・・アトピーのことを云っている。
普段、子供にとって「卵かけごはん」は夢のような食べ物だった。
だから「卵かけごはん」を食べた朝は、顔も洗わず「口の周りを黄色くして」学校に行った。
これが優越感にひたり、友達の羨望感を集める、シンボルであった。
そのくらい、卵は貴重なものであった。
子供のころ、村では「山羊(やぎ)」を飼う家が多かった。
もちろん「可愛くて」(つまりペットとして)山羊を飼うのではない!乳を飲むためである。
今のようにふんだんに牛乳が飲める時代ではなかったので「山羊の乳」を代用したのだ。
今その味は思い出せないが、たぶん牛乳に近かったのであろう・・・
子供を出産して母乳が出ない場合も「山羊の乳」で子供を育てた。
・・・たから、このコラムを読んでいる人の中にも、山羊の乳で育った人がいるはずだ!
要するに各家では、子供を育てるために山羊を飼ったのである。
山羊は「草」を食べる。
家の周りの岸に連れて行き、繋いでおくと自分で気に入った草を探して食べる。
また、山羊は非常に大人しく、世話をするのも随分と楽だったので、子供の仕事だった。
一番肝心なことは、乳搾りである。
山羊は嫌がって動き回るので、乳搾りは大変難しかった。
地面に「乳の入れ物」を置き、そこに向かって絞るのであるが、よくこぼれた。
山羊が動いて、その足で蹴飛ばして、入れ物をひっくり返すのだ。
そろそろ終わりがけに(つまり溜まった頃)こぼれてしまうと、本当に情けなかった。
しかし、小学校の学年が大きくなると共に、乳搾りも非常に上手くなったものである。
このように、子供なりに「役割を果たして」乳を飲んだのである。
・・・従って、大切に大切に飲んだ。
子供のころ、家の周り(つまり村の中)は「桑畑」であった。
桑はもちろん「蚕(かいこ)」の餌である。
つまり、蚕を飼うために、どこの家も桑畑で「桑の葉」を育てたのである。
それは明治から始まったもので「国策」として「生糸生産」に力を入れた。
「日本の生糸」を輸出して、欧米先進国から近代文明・文化を輸入した。
そのために全国の農家に「養蚕」を奨励したのである。
そして全国主要な所に「製糸工場」が造られた。
最も有名なのが「郡是」である。
私の生まれた地域にも「郡是山崎工場」があった。
高い大きな煙突が特徴で、広く大きな工場に沢山の人が働いていた。
よく儲けていたのであろう!非常に羽振りが良く「大相撲巡業」を開催していた。
しかし子供にとって養蚕は解らない。
子供が楽しみだったのは「桑の実」である。
桑の実は当然ながら、桑の木に生る実である。
熟れてくると赤くなるが、未だ色が赤い内は食べられない。
赤から「紫色」になった時が食べる時期である。
しかし、この時期を待つのが実に難しいのである。
うっかりしていると、目をつけていた木の「熟れた実」を人に食べられてしまうのである。
そのため、子供のルールを作り、一種の「縄張り」を決めたりしていた。
「紫色に熟れた実」を口いっぱいに「ほうばって」食べた味が忘れられない!
口の周りを紫色にして子供達は夢中で食べた。
それほど、良く熟れた「桑の実」は美味しかった!
田舎は野菜を中心にした自給自足であり、味噌も、豆腐も、コンニャクも自家製だった。
蛋白源は主として「豆」から取り、そのため豆の種類は多かった。
それでも偶には肉、魚が食べたい!
当時、肉を食べると云えば、ほとんど「鯨」であった。
・・・たまに自家の鶏を「しめて」食べることはあった。(それは卵を産まない鶏だ)
日常的に、魚を買って食べる手段も、金も、習慣も無かったのである。
・・・山奥に新鮮な魚を届ける「流通システム」が皆無だった。
そのため、川魚は良く食べた。
村の人は夕方になると、ぞろぞろと「竿」を持って、川に行き魚を釣るのである。
・・・もちろん趣味の釣りでは無い! 晩メシのおかずにするためである。
(このことは別のコラムに書いたので、興味があればご覧ください)
本当に、稀に、「塩さば」を売りに来た。
ご存知のように「塩さば」は腐らない。
とんでもない田舎には「塩さば」くらいしか、魚を届ける仕組みが無かったのである。
もう一つ貴重なタンパク源として「猪」があった。
昔の村には必ず「山猟師」が居た。
私の村にも「次郎さん」と云う、猟師が居て、鉄砲で猪や鹿や兎を獲って生活していた。
この次郎さんが猪を「仕留める」と村中に聞こえるように「太鼓」を叩いた。
そこで村の人は入れ物を持って、次郎さんの所に「猪肉を買いに行った」のである。
これは実に美味しかった。
今では「ボタン肉」、「牡丹鍋」と呼ばれる大変高価な料理となった。
食べ物のついでに、池の魚類(鯉・鮒・うなぎ・ナマズ)について書く。
私の生まれた村は高い所にあり、灌漑用ため池が9つもあった。
稲を育てるには水が要る。
川が無いために、ため池を造り、そこ
に溜めた水を少しづつ使って稲を育てるのだ。
ところが、日照りが続く夏には大量の水が必要なので、池が空になることがあった。
池の水は、その水系に依存している皆のもので、共有の財産である。
「我田引水」の言葉がある通り、誰でも「自分に多くの水」が欲しいのが人情だ!
水の使用方法については、ルールを決めて厳しく運用していたが、争いは起きる。
特に干ばつ気味の夏場には、水を巡って「血を見る喧嘩」がしばしば起きたのである。
水が少なくなると「時間を決めて」水を配分した。
これを「ときみず(刻水)」と云う。
ところが、問題はその時間の見方であった。
各人が、各家の「柱時計」で見るから、時刻がバラバラで数分の誤差があった。
例えば、決められた時間より2分早いのと、2分遅いのでは「4分」の差がある。
この4分間流れ込む池からの水を巡って、大人達が大喧嘩したのである。
一滴でも水が欲しい時にとって4分間の水は「想像を絶する価値」があった。
このようにして、夏場池の水はきれいに無くなることがあった。
そうすると、また仕事が待っていた。
池の底にいる「鯉・鮒・うなぎ・ナマズ」を総出で獲るのである。
大人も子供も腰まで泥水に浸かりながら、獲物をとった。
獲れた魚は全戸平等に分けたのである。
これは貴重なタンパク源であった。
「田植え唄」と云うのがある。
これは田植えをしながら唄う歌である。・・・いわば労働歌である。
日本には多くの民謡があるが、多くは仕事の唄である。
昔の人はのんびりと仕事をしたので「唄いながら」が普通だったのかも知れない。
自然の中で唄いながら仕事をすると、少しは仕事の辛さが楽になったのかもしれない。
田植えは共同作業が多かった。
要するに、お互いが強力しあって、各家の田植えをするのである。
もちろん、互助であるから報酬など全く無かった。
田植えをした後の田圃には「田ぶな」や「ナマズ」が育った。
田には水を定期的に入れねばならない。
水を入れる部分を「みなくち」と云い、田には必ず1箇所あった。
そこから、魚の稚魚が入り、そして成長する。
・・・魚は稲につく虫を食べる。
昔は、全く農薬を使わなかったから、魚も良く育った。
「田ぶな」は田に居る小さな鮒のことで、とにかく大量に居たので獲るのも楽だった。
「さで」(標準語ではタモと呼ぶのだろうか?)ですくうと大量に獲れた。
これを煮ると実に良い味がした。・・・貴重なタンパク源だ。
ナマズや時にはウナギも獲れたが、これを「さばいて」焼くと、おいしいご馳走だった。
鰻はそれほどでもないが、ナマズは焼くと実に小さく縮んだ。
このように、田圃からでも魚は沢山獲れたのである。
いま、田圃に魚は居ない。
農薬で「殺される」ので、恐ろしくて田圃には近づかない!
魚や蛙が虫を食べないので、虫が増え、従ってまた農薬を使う、悪循環になっている。
ところで、「麦秋」と云う言葉を聞かれたことがあるだろうか?
農家には一年に2度の秋があった。
本当の秋は10月の「収穫」であり、もう一つは「種まき」である。
一般的には「二毛作」だったので、5月には麦の収穫を行っていた。
麦の刈り取りと脱穀をした後の田圃を耕して、そこに田植えをするのである。
5月の麦から6月の田植え時期を指して、「麦秋」と呼んでいた。
ところで、必ず麦だけを作った訳ではなく、「大根」、「菜種」なども作った。
菜種はほとんど麦と同じ時期であるが、大根は真冬の作業であった。
これが実に辛い仕事であった。
田圃に作っている大根を1本1本抜き、それを川の水で綺麗に洗うのである。
「わらのタワシ」でゴシゴシ丁寧にこすって洗うのである。
「大根」は大切な商品である!そのため傷付けてはならない!だから「藁」で洗うのだ。
その冷たいこと! ・・・氷が張っている川の水は冷たい。
洗った大根は「木の箱」に入れて「農協」に出荷する。
「木の箱」は密閉の箱でなく、隙間の多い「スノコ」の様な構造であった。
この箱を作ることも、貴重な労働源であった「子供の仕事」である。
だから、子供ながらに「釘」を打つのも、「鋸」を使うのも、上手になった。
「出荷用の箱に入れた大根」の重量は、子供にとっては、相当なものであった。
農協には「リヤカー」に積んで運んだし、市場には「自転車」に積んで運んだ。
「足が着かない自転車」にこれを積むと、ヨロヨロしたし、倒れて辛かった!
しかし、今思うと懐かしい思い出である・・・
昔は「菜種」を作る家が多かった。
もちろん、菜種の実(黒く小さな粒)を収穫し、それを売って現金収入を得るのだ。
菜種の脱穀(?)には、足踏み式の脱穀機が使われた。
実を取った後の菜種のガラは、そのまま田圃に放置し肥料にした。
ところで、菜種のガラは子供にとって、面白い用途があった。
このガラが、かっこうの「蛍捕り」の道具になるのだ!
菜種を収穫するころ、田圃の周りの溝(農業用水路)には無数の蛍がいた。
これが田圃を飛び回るのだ。・・・昔は暗くなっても田圃で仕事をした。
「菜種のガラ」を上に向けると、不思議に多くの「蛍」がそれにとまった!
たぶん、虫の本能から、安全、安心で居心地が良かったのだろうと思う。
以上、懐かしんで書いたが、そんなに遠い昔のことではない。
つい、40~50年前の話である。
これが日本中何処にでもあった、つい「昨日の村」の姿である。
今日と比べると何という、劇的な変化であろうか!