No.85 橋本のしんさん
投稿日:2007/07/05
昔は本当に人が良くて誰からも好かれた人がいた。
おそらく全国どこに行っても、そこには「誰からも好かれる人」がいたと思う。
ここでは「しんさん」について書く。
「しんさん」は人の名前である。
もちろん、しんさんはとっくの昔に亡くなった人である。
最近ふと、この人のことが頭に浮かぶようになった。
それはたぶん、最近の悪いTVニュースと私の意識の中で関連があると思う。
「数人の人が」横に並んで、一斉に頭をさげてお詫びをする映像が頻繁である。
皆、神妙な面持ちで頭を下げているが、おそらく誰も心では悪いと思っていないだろう!
このような人達を見ると、余りにも「しんさん」との差が大きすぎるのだ。
「しんさん」は絶対に悪いことのできない人だった!
しんさんは私の隣村の「あきんど」だった。
姓は「橋本」さんで、名前はたぶん「新太郎」ではなかったかと思う。
城下(じょうした)小学校が我々の学校であったが、しんさんの店は学校の前にあった。
小さな小さな店で、文房具などを売っている商売だった。
学校と店の間には「県道」が走り、道から一段低い所に、幅1m程の川が流れていた。
その川の「小さな石橋」を渡ると、しんさんの店があり、そこは道から約5m程だった。
店と云っても小さな木造で、子供が数人入ると一杯になる程で、多分四畳半位だったろう。
そんな小さな店だが大層繁盛していた。
他に店が無いことも確かであるが、それ以上に「しんさんの人気」があった。
老人から小さな子供達まで、地域の全ての人が「しんさん」と呼んだ。
私も小学校の時には、迷うことなく、そのように呼んでいた。
学校帰りの子供達は「自転車のしんさん」を見つけると大声で一斉に名前を呼んだ。
この時のしんさんの応答が子供達の人気の秘密だった。
しんさんは、わざわざ自転車を止めて降りてから、ニコニコしながら子供に近づいた。
「ぼん」または「じょうちゃん」と、どの子供にでも、そう呼んだ。
頭をなぜたり、優しい言葉でやりとりをした。
坂道で会ったときに、しんさんの自転車を押すと、何度も何度も丁寧にお礼を言った。
そして、必ず「あめ」をサッと取り出して、子供達にくれたのである。
「しんさん」の人気の秘密は、ここにもあった。
今から思うと凄いことだと思うが、しんさんは実に頭の良い人だった。
それは「子供の顔と名前」を記憶していたことである。
その地域の大人の顔と名前を記憶しているのは、自然の成り行きである。
しかし子供の顔と名前を覚えるのは非常に難しい。
しんさんは「○○のぼん」と、どこで会っても名前で呼んでくれた。
小学校の在校生は約500人だったので、これは凄い努力と能力である。
それだけ、いつも多くの子供達を真剣に観察していたのであろう!
大人から名前で呼ばれるのは、子供にとって嬉しかった。
何か、一人前の扱いを受けた気持ちになった。
この「技」も「しんさん」の人気の秘密であった。
「しんさん」はいつも「まえかけ」をして、わら草履で足袋(たび)を履いていた。
このまえかけは厚手の丈夫な物で「造り酒屋」の名前が書いてあった。
「まえかけ」にはポケットがついていて、ここに小銭や財布が入っていた。
しかしこのまえかけも年代物でよく使い込まれて、擦り切れているところもあった。
濃い紺色のまえかけをして、キリッと紐を腰で結んだしんさんはカッコ良かった!
「まえかけ」は、やはり「あきんど」のシンボルであり、一番似合う。
この格好で、いつもニコニコして愛想よく、優しく、何より「誠実」であった。
そして「しんさん」は実に綺麗な「船場言葉」を使った。
・・・船場は大阪の商いの中心地である。
実はしんさんは、大阪で店を持ち大きな商売をしていた「旦那衆」だったと聞いた。
・・・それは私が親から聞いた。
未だ子供の時に大阪に出て丁稚奉公をして商いを覚え、そして独立して店を持った。
・・・おそらく血のにじむような大変な苦労だったと想像できる。
しかし大東亜戦争時の大阪空襲で家と店を焼かれ、故郷に疎開してきたのである。
やがて「しんさん」は醤油販売の商売を始めた。
しんさんの商売はユニークで、地域の家一軒一軒をくまなく廻り、醤油を置いていく。
そして、次に廻った時に、減った分だけ「継ぎ足す」のである。
・・・昔は「素焼きの瓶」に醤油が入っていた。
要するに、瓶にいつも満杯の醤油を入れて廻るのである。
しんさんは「瓶を振って」チャプチャプと云う音を聞いて、減りを確かめたのである。
やがて、醤油は瓶から一升瓶に代わったが、商いのやりかたは同じであった。
・・・昔の家は土足で入れる土間に醤油が置いてあったので、これが可能だった。
家の主婦が居ようと居まいと、しんさんは醤油置き場に自由に出入りできた!
考えてみると、これは実に凄いことである。
誠実な人柄と、強い信頼関係がないと、このようなことは絶対に出来ない!
「醤油の宅配」をしながら、しんさんは家の一部で「文房具屋」をしたのである。
おそらく、時が来たらもう一度大阪に戻って、商いをしたかったのでは?と思う。
しかし、その内年月が過ぎ、地域で「商権」が出来上がった。
・・・それはそれなりに、安定した商売であった。
内心、忸怩たる思いと、悶々として悩みに悩んだ時期があったと思う。
ついに「しんさん」は地域で生きる決断をした。
そして、息子に店を譲り、息子は大きな店を建て、商売の対象を拡大した。
息子の代になってからも、しんさんは相変わらず、自転車で醤油の商いを続けた。
よほど、商いと人が好きだったのだろう!
「晩年」もしんさんは絶大な人気があった。
「しんさん」が亡くなったのは、定かでないがおそらく40年ほど前だろう・・
「フと」した時に「しんさん」の姿が浮かぶのは、私だけでないと思う。
本当に誠実な、温かい、人間味溢れる、そして凛とした立派な人であった!
「ばれるまではのらりくらり」、事がばれると「並んで一斉に頭を下げる」面々。
最近の、情けない経営者を見ると、余計に「しんさん」が懐かしく思える。
昔の日本には「しんさん」のような人が沢山いたのである。