No.84 誇れる日本人「西岡京治」
投稿日:2007/06/05
ブータンと云う国を知っているだろうか?
私は恥ずかしながら、ブータン国の位置や国の概要について知識が無かった。
云うのをはばかるが、それほど馴染みのない、知られざる国である。
要するにブータンは「神秘の国」と呼ぶのがピッタリする。
ブータンは王国である。
場所は「ヒマラヤ」にあって、人口は約100万人である。
国民の大半は「農業で生計」を立てているが、田畑に使えるのは国土の約1割である。
(国土の大半は山と谷である)
このブータン王国に於いて「最高に尊敬された日本人」が居た。
その人の名を「西岡 京治」と云う。
私は迂闊にも知らなかったが、我々が「誇るべき日本人」である。
自分の人生の全てを「ブータンのため」に捧げた、素晴らしい日本人である。
彼はブータン国王から「ダジョー(最高の人と云う意味)」の称号を授けられた人である。
彼が59歳で亡くなった時の葬儀には、僧が100人・農民が5000人も参列した。
これはブータン国、始まって以来の出来事だった。
それほど、彼は一般の国民に慕われ、尊敬されていたのである。
では「西岡 京治」は何をした人なのか?
一言で云えば「豊かなブータン」を創った人である。
農業の生産性を飛躍的に高め、それで国民を豊かに(つまり国を豊かに)したのである。
これと云った産業が無いブータンでは、農業従事者が大半であった。
しかし、その生産性は極めて低く、原始的な方法によるものだった。
彼は、それを見て嘆き、自分の全知全能を持って「農業改革」に取り組んだのである。
その期間が実に28年!
ブータンに住み、このように永い年月を「信念に生き」そしてブータンに骨を埋めた。
なぜ彼はブータンに、これほどの思い入れを持ったのか?
それは学生時代に端を発している。
西岡は、大阪府立大学・農学部に進み、そこで運命的に恩師「中尾佐助」と出会ったのだ。
中尾助教授との出会いが、西岡の運命と人生を決めたのである。
恩師中尾の推薦で、1958年「西北ネパール学術探検隊」に参加した西岡があった。
ヒマラヤに魅せられていた西岡だったが、この探検を通してブータンの貧しさを知った。
「そこに住む人々の貧しさに心を痛め、生活を少しでも豊かにできないか」と考えた。
この探検隊の隊長は「川喜田二郎」であった。
川喜田二郎は恩師中尾と非常に懇意であり、中尾の影響で彼は探検隊に参加したのである。
尚、「川喜田二郎」は、ブレーンストーミングなどの整理の「KJ法」で知られる人である。
1958年(昭和33年)と云えば、未だ日本は非常に貧しかった。
しかし、その貧しい日本人から見てもブータンは、彼が心を痛めるほど貧しかったのだ!
・・・現在からは想像できないほどの貧しさだったと思われる。
続いて1962年、恩師中尾を隊長とする「東北ネパール学術探検隊」に副隊長で参加。
何と、新婚の「里子夫人」と二人の参加であった。
・・・これは将来、夫人と共にブータンに住むことを強く意識した参加であると思う。
恩師中尾は、日本人として初めてブータン政府の招きで入国し、そこで「要請」を受けた。
ドルジ首相が、国民の食糧改善のため「農業の専門家」を派遣してほしいと依頼したのだ。
依頼を受けた恩師中尾の頭に、真っ先に浮かんだのが西岡だった。
異郷の地で、根気と忍耐と人々の信頼を受けなければ、出来ない仕事である。
「穏やかで、謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家」の西岡が最適と恩師中尾は考えた。
結果は、恩師中尾が見抜いた通りであった!
1964年、西岡は念願のブータンに里子夫人と二人で赴任した。
それは東京オリンピックが開かれた年(昭和39年)である。
まだまだ日本も貧しかったが、ブータンの生活は「悲惨」に近かったと想像される。
西岡の努力もさることながら、里子夫人の献身的な協力と支援が存在したと思われる。
ともかく、現地で小さな「土地(約200㎡)」を与えられ、これを実験農場にスタートした。
私は、ブータン国が立派だと思うのは、西岡の手伝いに「少年」をつけたことである。
12~13才の少年3人を「実習生」として西岡につけ、勉強させたのである。
おそらくブータンでも選りすぐりのエリート少年だったのであろう・・・
この年代の子供は、物を覚えるのに最も相応しい。
毎日毎日、西岡と共に働き、彼が身を持って教えることに、目を輝かせたことであろう!
この少年達がやがてブータン国の「農業指導者」として活躍するのである。
それまでの農業は「焼畑」が中心で、生産性は極めて低かった。
彼は「土の耕し方、畑の作り方、種の蒔き方」などを基本から教えた。
そして、最初に畑に蒔いたのは「大根の種」である。
大根は良く知られているように(昼と夜の)寒暖の差が大きいほど良く育つのである。
西岡はそれを知っていて、日本から大根の種を持参していた。
彼が見込んだ通り、夏には見事な(誰も見たことが無い)大根が育った!
これが「噂」になり、農場には国会議員ほか多数が見学に訪れたと云う。
座学での指導は多くの人がするが、西岡は身を持って実地でやって見せたのである。
「座学と実地」は、受け取る側にとって「説得力」が全く違う。
最初は西岡を疑いの目で見た人も「見事な大根」を実際見ると、一瞬で受け入れた。
文明の利器が全く無い国で「口コミ、伝聞、噂」は、尾ひれがついて広まっていく。
派遣の任期は2年であったが、西岡の人柄と実績に国王が「惚れ込んだ」のである。
そして、国王から「任期延長」の決定が下されたのである。
この決定が「生涯を通して最も嬉しかった」と後に西岡は語ったと云う。
・・・それほどブータンの農業指導に命を懸けていたのである。
「焼畑農業」では人々は豊かにならない!
西岡が描く青写真を胸に、信念が彼を揺さぶった。
やがて実験農場の規模も拡大し、野菜から次に「水稲作り」の指導を始めた。
水稲は野菜のような訳にはいかない! 先ず、豊富な水が必要である。
そこで西岡は灌漑用水の建設に着手した。
そのやり方が実に西岡流である。
普通の日本人指導者なら建設機械を投入して鉄筋コンクリートの土木工事をするだろう。
しかし西岡は、それをしなかった。
ではどうしたか?
西岡は、その地区にある材料(例えば竹)を使ったのである!
人々は西岡がやって見せた方法を「真似て」用水路作りを行った。
何しろ、自分達で出来るし、材料費も極端に安い!
・・・この地区で実に360本もの「水路」が完成したと云う。
水路によってアッと云う間に、それまでの水田の50倍に当たる60Haの水田ができた。
水田の米は、美味しい!
野菜が豊富に取れ始め、そして米は蓄えができる! そうすると人々に余裕が出来る。
やがて西岡はブータンの人々の「食生活の改善」を手がけるようになった。
数々の西岡の指導による成功例が国を動かすようになった。
やがて西岡は「国家プロジェクト」に深く係るようになり、更に活躍の場が広がった。
ブータンに来て16年、1980年に国王は「ダショー」の称号を西岡に贈った!
ダショーとは「最高に優れた人」と云う意味で、極めて限られた人だけに贈られる。
これは長年の「ブータン農業への貢献」に対する最高の栄誉である。
もはや西岡はブータン人であった!
1992年3月、西岡は突然倒れ、そして亡くなった。
ブータンに生きた実に28年の歳月・・・
自分が生涯を賭けた仕事をやりとげ、人々から一心に尊敬された。
満足感で満ちた最後だっただろう! ・・・59歳であった。
このように「凄い男」には、やはり「素晴らしいパートナー」があった。
突然の訃報を受けて、彼の奥さんが語っている言葉が、また素晴らしい!
「ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ!」
だから「ブータンの葬式で、ブータンに眠らせてやって下さい!」と。
私は、2004年9月に放映されたTV番組で「西岡京治」を知った。
凄い人が居るものだと、メモを取りながら視ていたが、村人と奥さんに感動した。
元村長だったと云う、その人の言葉:
「ダショーを想いだすことができて嬉しかった! ありがとう!」と言った。
奥さんを映像で初めて見たが、実に立派な方であった!
・・・私の中で、西岡氏の株がまた一段と上がった・・・
西岡は今でもブータン人の心の中で生きている!
最も尊敬された日本人であり、我々の「誇り」である。