『風の見える朝』

No.80 藁(わら)と日本人

投稿日:2007/01/15 投稿者:大西秀憲
日本では昔から「人の世のあり様」を次のように例えた。
「籠に乗る人・担ぐ人・そのまたワラジを作る人・ワラジの藁を作る人」

最近「藁(わら)」が新聞の話題になることが多く目に付く。
ここ40年ほどの間、藁は見向きもされなかったのだから隔世の感がある。
日本では、昔から藁は貴重な資材、資源であった。
日本人の生活と藁はあらゆるところで融合し、強く結びついている。
極端に云えば、昔の生活は藁無しでは、成り立たなかったのではないかと思う。
今では、「鮎かけ」か「渓流釣り」の人が履く「藁ぞうり」で名残を留めている。
しかし、つい50年ほど前まで日本では、藁ぞうりが多く使用されていたのである。

小学生のころのことである。
当時はどの家も貧しく、学校内での履物は「藁ぞうり」が普通であった。
・・・スリッパと云うハイカラな物は、誰も履いていなかった!
その頃の小学校は、もちろん木造であり、当然ローカも教室も木の板であった。
小学校に入りたての頃は、雑巾でローカや教室の床を拭いた。
たぶん小学校高学年だったと思うが、ローカや床が「油拭き」されたのである。
要するに、床板に油を染み込ませたのである。
これは「藁ぞうり」にとって、非常に都合が良かった。
なぜか? 
それはローカを「滑る」のである。
床に油が染み込んでいるため、藁と相性が良く、実に良く「滑った」のである。
休み時間などは、皆で勢いをつけて(助走して)スイスイ滑っていた。
その代わり、終わりの「掃除」が大変であった。
とにかく掃き掃除で出るゴミは、ほとんど全てが「藁」によるゴミであった。
・・・これは日本中、同じ状況だったと思うので、懐かしい方もおられるだろう!

「ぞうり」だけではない! 生活の中で「藁」は実に多くの活躍の場があった。
藁の用途は(昔の生活では)想像以上に広く、一例として次の様な用途がある。
・細かく切って田圃や畑の肥料にする
・米俵や莚(むしろ)やカマスの材料にする
・縄の材料(縄をなう)・・・縄は昔のロープである
・畳の資材(畳床)にする ・・・畳は「イグサ」の他は、ほとんどが藁である
・稲束をくくる・・・前年の藁で今年の稲束を結う
・農作業の資材・・・農作業のあらゆる場面で藁は実に重宝な資材であった
・山仕事の資材
・藁ぞうり(わらじ)の材料・・・昔はどの農家でも「ぞうり」は自作した
・干し柿の吊るしひも・・・干し柿を吊るす必需品
・野菜の保温対策・・・雪や霜対策に野菜に被せて使った
・樹木の寒冷対策・・・例えば「松」の幹に巻いて寒中の虫集めにする(こも)
・土壁の資材・・・土と混ぜて練り、強度を増す
・家畜の餌・・・例えば牛・馬の餌として混ぜて用いる
・堆肥・・・家畜小屋の敷き藁として使用し、のち集めて堆積して肥料とした 
・しめ縄・・・ご存知、正月用お飾り ・・・現在これが一番有名か?
・箒(ほうき)・・・昔は藁で箒を作り(自家製)掃き掃除に使った
・鶏の玉子産み場所・・・藁を敷いた場所を作ると、そこで玉子を産んだ
・うさぎの寝床・・・昔の子供は兎を飼うのが多かったが、小屋には藁を使った
・つぼき ・・・これについては以前に書いたので、ご覧下さい
以上、思いつくままに順不同で書いたが、如何に日本人の生活と密着していたか解る。

藁の凄いところは「自然に還る」ことである。
使用したあと、放置しておいても自然に腐り、そして土に還るのである。
正に自然の「環境リサイクル」の元祖である。
・・・因みに、土(自然)から生まれたものは必ず土(自然)に還るのである。
約40年前まで日本では自然の環境リサイクルが営まれていたのである。
従って、そこには「公害問題」などは全く存在しなかった。
この様な自然と人間が一体となった営みが太古から永い歴史で行われていたのである。
ところが、昭和30年代からの「高度経済成長」で様相がガラリと変わったのである。
工場で作られた工業製品が農業を含めた人の生活の中に急速に入ってきた。
工業製品は主として「プラスティック」に代表される「石油・化学製品」である。
人々の生活は石油・化学製品によって急に豊かになり、劇的に変化したのである。
そして、都市・田舎を問わず、自然の資材が姿を消し、工業製品に入れ替わった。
つまり、前で書いた「藁」がほとんど「石油・化学製品」になったのである。
改めて云うまでもないが、石油・化学製品は絶対に土に還らない。
  ・・・土に埋めても、永久に腐らず残る
今、田圃の「稲」はコンバインで刈り取り、藁は自動的に細かく切って田圃に撒く。
従って、前で書いたように藁を「資材」として使うことは不可能である。

昔はどうしていたか?
先ず、稲は手で刈り取り田圃に広げる、次にそれを適当な束になるように集めて結う。
結う(くくる)のは「藁」である。
・・・藁の束を腰に結わえておき、適当な量を抜き取って、それを両手でねじるのだ。
田圃全部の結いが終われば、稲木をこしらえる。
稲木とは、稲束を乾燥させるための「かけ竿」である。(これを稲木竿と呼んだ。)
・・・竿の材料は材木である。 ・・・山で切った長い立ち木の皮を剥いたもの。
この稲木竿に稲束を「かけて」いく。
この「かける」のにもコツがあり、大体稲束を7−3位に分けて、3を竿にかけた。
次の稲束は、反対側から3の部分をかけるのである。
このようにすると、びっしりと水平に稲束をかけることができるのである。
・・・これは正に(農業)生活の知恵である。
稲木にかけた稲束は天日で十分乾燥させる。
それを「足踏み」や発動機による「脱穀機」で「籾」と「藁」を分離させるのである。
脱穀が終わった藁束は手で投げて、それが仕事の進行と共に高く積まれていく。
要するに、藁束の山ができるのである。
・・・余談だが、脱穀した後の藁束は実に「良い匂い」がした!
     ・それは他に例えようがない、自然の匂いであった。
このようにすると藁は自然のままで残る。
従って、藁を資材として様々に利用できるのである。

ところで、手で稲刈りをする場合に面白いことがある。
稲刈りに使う「鎌」は特殊なのである!
この鎌は「刃がギザギザ」になった「のこぎり鎌」と呼ばれるものである。
普通の鎌は刃が鋭い刃物になっている。
  ・・・この鎌は「麦刈り」に使った。
稲は「のこぎり鎌」で仕事をすることにより、素晴らしく能率が上がるのである。
麦の茎は硬いが、稲の茎は柔らかい。
柔らかい茎を切るのに、のこぎり状の刃が有効なのである。
これも永い永い歴史の中で、生活の知恵から生まれたものであろう!
麦刈りと云ったが、昔は稲の刈り取りをした後に、必ず「麦」を蒔いた。
麦は大体5月に刈り取りを行った。 ・・・今ではほとんど麦は作らない。
因みに、昔の家はほとんどが「藁葺き屋根」であった。
ここで云う「藁葺きの藁」は稲の藁ではないのだ。
・・・それは「麦わら」であった。
従って、昔の農家ではどの家も屋根葺き替え用の「麦わら」を蓄えていた。

子供の頃の思い出として鮮明に記憶していることがある。
それは「藁の家」である。
脱穀をした後の藁が自然に高く積まれていくことを前で書いた。
この山にもぐりこむと、以外に暖かかった。
そこで、少し手をかけて中に空間を造り、これを家としたのである。
・・・なぜか?そこに寝てみたかった!
寝た最初の頃は良かったが、時間が経つと段々と寒さが効いてきた!
季節は10月末であるが、深夜は良く冷え込んだ。
我慢にも限界があり、弟と一緒に震えながら、家にかけ戻ったことがある・・・
そのようなことを経験された方も沢山おられるのでは?と思う。

40から50年前と云えば昔のように思われるかもしれない。
しかし、歴史から見れば、つい昨日のような時間である。
その頃はまだ人間が自然と共生しつつ、自然の循環の中で生きていたのである。
国民の中で、農業従事者が実に多くの割合だった時代である。
その後の高度経済成長で農業従事者が都会に出て、工場で工業製品を大量生産した。
これによって日本の国も国民も、経済的には確かに豊かになった。
しかし、化学製品や石油製品を田舎の生活や農業にまで浸透させたのである。
その結果、人々は「藁」のことなど、きれいに忘れてしまった!
永い永い歴史、あれほど人の生活と密着していた「藁」をである。

今、自分の手で「藁で縄をなえる人」がいくらいるだろうか?
「正月のしめ縄」を見て、材料が「藁」であることを知らない人もいるのではないか?
もっと云えば、その「藁」が米を採ったあとの物であることを知っているだろうか?
・・・何と云っても日本人の主食は米(稲)であるにも拘わらず!
なんという国になってしまったのだろう・・・

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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