『風の見える朝』

No.81 江戸時代は良い時代!

投稿日:2007/02/15 投稿者:大西秀憲
学校では「江戸時代」を良い評価で教えない。
(私は封建制度を良いと言っているのではない)
私以前の世代はどうであったのか解らないが、学校ではとにかく悪く教えた。
例えば長い間「鎖国」をしていたし、「士農工商」の「身分制度」があった。
そして封建制度で武士階級がいばり、常に民衆は搾取されていた。
また、国を閉ざしていたため世界の文明から遅れ、世界から取り残された。
経済活動は沈滞していたし、産業は非常に遅れていた。
等々、書いたら限が無いが、とにかく江戸時代が良かったと云う評価がない。
本当にそうだろうか?

明治維新により幕府が倒れ、明治新政府が、それに代わった。
そしてあっと云う間に欧米に追いついた。
例えば維新後僅か37年で「世界の大国ロシア」と戦い、これを見事に撃ち破った。
ヨーロッパのどの国もできなかったことを、東洋の新興国「日本」がやったのである。
明治維新以後の人は「まるで人が変わったように」優秀になったのだろうか?
そんなことはあり得ない!
日露戦争に勝ったのは「武士階級」の力である。
将校・将官は、ほとんど全員が旧武士(明治以後は士族という)であった。
要するに、武士がヨーロッパの騎士に勝ったのである。
因みに兵隊は、ほとんどが「農・工・商」の出であった。

明治新政府は革命(無血革命に近い)で政権を取ったため、旧体制を徹底糾弾したのだ。
従って、維新以前は人々はひどい搾取を受け、極端に虐げられていたように、話を作った。
江戸時代の徳川幕府に比べて、いかに明治政府が素晴らしいか!を宣伝するためである。
これは云わば、当然のことで、古今東西どの権力者も、同じことをやった。
江戸時代は本当に、そんなに悪い時代だったのだろうか?
以前から、いつも頭の片隅で疑問を持っていたので、そこで私なりに色々と調べてみた。
調べるほどに、悪いどころか、逆に良い時代だったように思うのである。

先ず、江戸時代の経済活動をみると、沈滞どころか非常に活性化して世界に冠たるものだ。
大阪の上方と首都の江戸を結ぶ流通ルートと同システムは極度に発達していた。
また全国の産物を流通させる廻船とシステムは全国津々浦々に完全に機能していた。
当時の「藩」を一つの国とすれば、丁度日本は「連邦国家」か「連合国」であった。
従って、国と国の流通を通して、海運貿易のような経済活動が行われていたのである。
この経験が明治以後の世界的な経済活動に優位に効いていくのである。

国を閉ざしていたために世界の情報が入って来なかった。
それで日本は遅れたと云われている。
これも間違いであり、情報はどんどん入っていた。
長崎の「出島」を情報のインターフェースとして、むしろ貪欲に情報を取り入れたのだ。
例えば書物である。
江戸時代、科学・技術に関するヨーロッパの本で有名なものは、残らず日本にあった。
あまり入り口が広いより、狭いほうが情報の取り入れに有効なのではとさせ思う。
従って、この時代の知識人はヨーロッパの情報に精通していたのである。
これは江戸時代の多くの人の書き記したものによって明らかである。
要するに、大切なことは、何でも知っていたのであり、不自由はあまり無かった。

生産活動も同様に非常に発達した。
海外から物資が入ってこないのだから、国内で全てを賄う必要から生産が発達した。
要するに何でも自前で作るように日本中に工場が出来上がったのである。
「自分たちで作る」この活動が約270年ほど続いたため、極度に産業が発達した。
明治に入り、欧米の製品を見たとき、直ちに同じものを作る土壌が、出来ていたのだ。
これが今日も続く、「世界に冠たる日本の製品」の基礎となっているのである。

産業だけではない。
工芸も美術も絵画も芸能も全てのものが、じっくりと熟成されて円やかに育ったのである。
これは実に江戸時代の最大の功績である。
この分野全てのものが世界に冠たる技能・美術として今日評価されていることで解る。
なぜ江戸時代に育ったか?それはこの時代が「平和で安定していた」からである。
この時代、世界に目を向ければよく理解できる。
先進国では戦争に明け暮れていた時代であった。
日本は非常にタイミング良く、鎖国をしていたため、戦争に巻き込まれなかったのである。
これが幸いした。

農業も非常に発達したため食料の不安が無くなり、よって人口も大変増加した。
農業は新田開拓を奨励したため大いに発達したのである。
従って江戸時代の終わりごろには、名目の生産高と実質生産高には大きな開きがあった。
実質的に裕福な「藩」が幕末に力を持ったのである。
人口は幕末には約3500万人であったと云われている。
(江戸時代に約3倍に増えているのである)
戦争のない平和な時代が如何に国を豊かにするか!の好例である。

人々は生活が安定し豊かになると遊興に高じ、そして勉学に勤めるようになった。
これは武士階級が剣術より教養・勉学が求められるようになった影響である。
一市井の人々や子供が多く勉学に勤しむようになったのは注目に値する。
なぜなら、この時代、世界に目を向けても、一般民衆が勉学した実態は皆無である。
江戸はもちろんのこと、全国津々浦々に一般民衆の学校「寺子屋」ができた。
ここにはどんな階級の子供でも通って学べたのである。
例えば、江戸時代の終わりには全国に約45000の寺子屋があったと云う。
これは実に驚くべきことである。
もちろん、世界にこのような例は無い!
なぜ?日本人はこのように勉学好きなのであろうか?

寺子屋のおかげで実に多くの民衆・子供が「読み・書き・そろばん」を習った。
その結果、国民(?)の識字率は非常に高くなった。
幕末(1853年)にペリーが来たのを初めとして、多くの欧米人が来るようになった。
彼らは最初から日本と日本人を「なめきって」いたのである。
一様に「未開発国」の野蛮人だと思っていた。
そして日本に来て、 実際に日本人と接して「彼らは驚いた」のである。
彼らの見た日本人は、礼儀正しく、勤勉で、謙虚で、そして文字を知っていた。
彼らが、一番驚いたのは誰でもが普通に読み書きが出来たことである!
そして、更に驚いたのは一般民衆が普通に「計算」ができたことである。
寺子屋における「読み・書き・そろばん」のおかげである!
一説によると「幕末における日本人の識字率は約60~70%」だった。
これは実に驚異的な数字である。
もちろん、断然トップの世界一の数字である。
・・・この高い知識レベルを見て、欧米列強は「直接侵略」を諦めたと云われている。
実際、「質の高い」民衆が明治になって、優秀な国民となって最大に機能したのだ。
従って、江戸時代の寺子屋がなければ、明治以後の驚異的な日本の発展はない!
 ・・・多分多くのアジア諸国同様、欧米の植民地になっていただろう。

浦賀にペリーの黒船が来た時は日本中が大騒ぎになった、
幕府の方針と対応が決まらず、従って右往左往したのである。
このとき日本全国から浦賀に見物者が押し寄せた。
その中に3国(藩)の人々もいた。
佐賀・鍋島藩、宇和島・伊達藩、そして鹿児島・島津藩の面々である。
それぞれが手に「遠めがね(望遠鏡)」を持ち、紙(スケッチ用)を持っていた。
浦賀沖にいる黒船を見て、その姿・構造を書きとどめるためである。
このようにしてスケッチをそれぞれの国に持ち帰った。
そして、ほぼ3国同時に「黒船造り」を開始したのである。
もちろん、船のエンジンである蒸気機関も自前で作ったのである。
約3年後、3国で純国産の蒸気機関付き船舶が出来上がったのである。
このことは正に驚異的な出来事である。
当時、基本的な技術や技能が、非常に広範囲に発達していたからこそ出来たのである。
このようなことが平然とできた国は他に無い!

このように見ていくと江戸時代は良い時代だったのでは!と思う。
国を閉ざすことで、逆に国の内部が活性化し、そして何より独自のしくみができた。
長い時間をかけて、じっくり・じっくり独自の文化を醸成したのである。
これで「日本の基盤」ができた、と思っている。
礼節重視・勤勉・謙虚・創意工夫に優れる、など民族の特性は江戸時代にできた。
要するに今も我々に流れる「DNA」がここで刷り込まれたのである。
私は最近そのように思っている。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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