『風の見える朝』

No.82 風が見える風景

投稿日:2007/04/02 投稿者:大西秀憲
日本の地方の町では、どこでも同じだと思うが一家に車が2~3台はある。
軽トラックが1台あるのが特徴だ。 ・・・軽トラは「おじいさん用」である。
当主の奥さん用に「軽乗用車」が1台あるのも特徴である。
奥さんは、この「軽」で「つとめ」に出る。 ・・・要するに稼ぎに行く。
奥さん(つまり主婦)は仕事帰りにスーパーに寄って買い物をする。
この「買い物」の中に、実に現在の世相を良く映し出している物がある。
それは「野菜」である。
これが実に不思議である! なぜなら、家に帰れば「畑がある」のだ。
つまり、最近の(特に若い)主婦は畑で野菜を作らないし、畑の野菜を使わない!
なぜか?  それは「面倒くさいから」である。
例えば、畑の「ほうれん草や大根」は「そうじ」をしたり洗わなければ食べられない。
これに比べてスーパーで売っている野菜は、すぐに食べられるのだ。
その方が「時間が無い」(らしい?)主婦にとって「合理的だ!」と云うことである。
・・・一見もっともらしい言い分だが、実はこの考えが「日本を壊した」一因である。
昔の地方の町や村(つまり田舎)では、野菜類は自給自足が当たり前であった。
(昔と云っても、僅か40~50年前のことである。)
一族を中心にした村の中で、変わることがない自給自足の生活が有史以来続いたのである。
その村には、変わらぬ人間の営みがあり、生活の「匂い」があった。
「生活の匂い」は「村を包む風」によって、鮮やかに風景を映し出していた。
おそらく日本中の村の風景は、同じようなものであっただろうと思う。
そこで当時の田舎の風景(ごく普通の農家)を「風に乗って」振り返ってみる。
昔の農家(当時ほとんどの家が農家)の構造は、どこの家もほとんど同じであった。
屋根は「藁葺き」で、屋根全部が藁の造りと庇の部分だけ瓦になっている2種類あった。
藁葺き屋根は軒が低いため「冬暖かく、夏涼しい」、今で云う「省エネ住宅」だった。
家の入口(玄関)に向かって右手には「まや」と呼ぶ牛の部屋が必ずあった。
(家の中では「まや」とつながっていたので、要するに牛と人は同居である)
牛の糞尿に「蝿」が群がるため、家の中は「蝿だらけ」であった。
入口を入ったところが「土間」であり、土間から部屋に上がる手前に「はこだん」があった。
「はこだん」は板ぶきで、畳の部屋より一段低く、腰掛に便利であった。
重要でない来客対応は、ここで済ました。
例えば「富山の薬売り」は「はこだん」で店を広げたのである。
・・・子供達は、それを「はこだん」に並んで座って、大人しく見ていた。
土間から上を見ると、屋根裏が見えた。
屋根裏は「つし」と呼び、そこには将来屋根を葺くための「藁」を備蓄していた。
この屋根裏は「煤で」真っ黒であった。
家には必ず「いろり」があり、そこで火を焚くため、煙が充満するのである。
この煙で、家の骨組みに使用している木材が非常に長持ちした。
例えば、百年経った家の葺き替えをしても、材木を削ると「新品の木の香り」がした。
使われている竹などは「すす」を落として割ると、青みすら残っているものがあった。
要するに、有史以来我々の祖先が考え出した「生活の知恵」である。
家の入口に向かって左手には「風呂」があった。
風呂といっても所謂「五右衛門風呂」で、小さな鉄の釜である。
もちろん水道など無く、風呂水は井戸から手桶で運ぶのが子供の仕事だった。
井戸から水を汲み上げるのが又大変で、「つるべ」を使っての全て手仕事である。
「つるべ」は滑車の応用であり、円形の滑車に綱を通し、綱の先端に桶がついている。
綱の手を緩めると桶が井戸の水面まで落下し、桶に水が入る。
入った頃を見計らって、綱を手前に引くと、滑車の働きで、水が入った桶が上がってくる。
これを手元に置いた別の桶に移す。
このようにして手元の桶が一杯になったら、それを手で運んで風呂釜に移すのである。
風呂釜を一杯にするためには、子供にとっては結構な労働だった。
水が入ると、今度は風呂を焚かねばならない。
もちろん風呂焚きの燃料は木である。
この「木」は自家製で全て山から取ってきたものである。
ところが、風呂焚きも中々「技」が必要で、上手く燃やすのが大変難しいものだった。
いきなり大きな木を燃やそうとしても、燃えるものではない、最初は「焚きつけ」が要った。
この焚きつけは「こくば」というもので、松葉である。
「こくば」は、もちろん山から集めて持って帰るのである。
このおかげで、風呂焚きは随分楽だった。
入口の土間を抜けたあたりに台所があった。
今から思えば随分とお粗末な台所である。
「流し台」は石で出来ていたし、「かまど」は土であった。
例えば、ごはんを炊くと云っても大変で、水加減をしたお釜を「かまど」にかける。
そして薪を燃やすのである。
「初めチョロチョロ、中パッパ、ジュウジュウ吹いたら火を引いて、赤子泣いても蓋とるな」
これが「ごはんを炊く」ノーハウである。
ごはんを炊くこと一つとっても、大変難しかった。
子供の頃から、これを繰り返し繰り返し経験して、昔の子供は上手にご飯が炊けた。
ここで「かまど」と書いたが、私の村では「おくどさん」と云った。
(ずっと後から知ったことだが、「おくどさん」は京の公家言葉だと聞いた。)
「火を焚く」こと自体が現在の都会では、もう皆無ではないだろうか?
短い時間で効率よく上手に火を焚くことは「コツ」と慣れが必要で、すぐには出来ない。
台所には「水」が付き物である。
(もちろん水道があって蛇口をひねると水が出る訳ではない)
水は「水瓶(みずがめ)」に溜めて使ったのである。
水瓶は素焼きの大きな瓶である。
水はご承知のように暫く溜めると腐る。
しかし、この瓶に溜めた水は不思議なことに腐らなかった。
台所では、この水瓶から必要に応じて「ひしやく」で汲んで大切に大切に使った。
・・・元は井戸水だから「ただ」であるが決して無駄遣いはしなかった。
それは「もったいない」の気持ちと共に、水汲みの大変さを知っていたからである。
玄関入口に向かって右手(牛の居るとなり)には便所があった。
この便所が大変な代物であり、まさに「便所」の呼び方が相応しい構造である。
全て木造で非常に狭く、戸も床も壁も隙間だらけで、当然「便器」は無かった。
床には30cm×60cm程度の穴があいていて、それを「またいでする」のである。
(下には無数の元親戚が様々な色や形で「浮いて」いるのが直接見えた)
いわゆる「ボッチャン便所」で、「うんこ」を落下させるときは「コツ」が必要だった。
無防備・無意識に落下させると必ず「おつり」が「尻」に返ってくるのである。
元々は身から出たもので、親戚のようなものであるが「おつり」の「汁」は汚い。
そこで、落下させる瞬間に「尻」を前後に振るのである、これが「コツ」であった。
このようにすれば前後どちらかに飛んで落ちるため「おつり」が直接来ないのである。
昔の子供は「うんこ」一つにしても、色々と工夫をしたのである。
便所の外側には板の蓋があり、それを除けると「汲み取り口」があった。
これは、溜まった「大小便」を汲み出すためであり、定期的にこの仕事が必要だった。
運ぶものを「肥たご」と云い、これを天秤棒で前後に下げて担ぎ、畑に運んでいく。
大小便=糞尿は貴重な「肥料」であった。
畑の野菜は「糞尿」で育ったのである。 ・・・そして糞尿は土に還り、土は肥えた。
見事な自然の循環であり、環境サイクルが「エンドレス」で機能していたのである。
その代わり畑からは強烈な匂いがして、これを「田舎の香水」と呼んだ・・・
風呂にしても台所の「かまど」にしても、燃料は既に書いたように山の木である。
これらは全て「自給自足」であり、各家が必ず自分で調達した。
この仕事は農家の「冬の期間の仕事」であった。
11月頃から3月頃までの間に、一年分の「燃料=木」を山で調達して蓄えるのだ。
子供も学校が休みの日はいつも山仕事であった。
学校から帰っても、すぐに山に行って仕事をした。
調達するのは3種類で「割り木」と「しば」と「こくば」である。
割り木は太い雑木を「鋸」や「ヨキ」で倒し、約60cmぐらいに切ってから割るのだ。
割った「割り木」は一年分を軒下に積み上げる。 ・・・量の管理もできた。
この割り木のおかげで風呂も焚けたし、ご飯やおかずの煮炊きも出来たのである。
雑木で割り木にする以外(枝など)は「ナタ」で細かく切り、「縄」で一抱えの束にした。
これを「しば」と云った。
・・・因みに、二宮金次郎の銅像が背負っているのが「しば」である。
「しば」も一年分を山で調達した。
これは主燃料である「割り木」に火をつけるための補助燃料である。
・・・他に、「しば」は風呂の追い炊きによく使った。
「こくば」は山の松葉を「がんじき」で集めて、持ち帰ったものである。
この「こくば」は「しば」を燃やすために「最初に火をつける」役割に使ったのである。
松葉が枯れて、そして乾いたものであるから、実に良く燃えた。
各家で競って「こくば」を集めて持ち帰るため、山は「公園」のように綺麗だった。
・・・因みに、山を綺麗にすれば「マツタケ」が沢山採れるのである。
プロパンガスの普及で「こくば」を集めなくなったため山が荒れ、松茸が生えなくなった。
(この関係は以前のコラムで書いているので、興味があればお読み下さい)
山の木は燃やしても有毒ガスは全く出ない。
火力と煙と灰になって自然に還るのである。
見事な自然エネルギーの循環であった。
これを我々の祖先は有史以来、脈々と受け継いで行ってきたのである。
夕暮れ時になると村々のどこの家からも煙があがり、夕日がそれを鮮やかに染めた。
子供が風呂を焚く煙であり、またお母さんがごはんを炊く、生活の煙であった。
要するに、煙一つを取っても生活と密着した「人の匂い」がしたものである。
例えば、時には「火葬」の煙が、風向きによっては村中に漂った。
信じられないかもしれないが、大阪万博(1970年)ごろまで親族が火葬したのだ。
火を点けるのが夕方近くだったから、丁度夕食時あたりに「独特の匂い」がした。
・・・「○○さんが焼けよってや」大人たちは匂いがすると「哀れんで」そう云った。
因みに村の火葬場を私の地域では「さんまい」と呼んだ。
昔の子供達は「人を焼く煙」をも肌で感じ、それすらも生活の匂いとしたのである。
これは、おそらく「有史以来」日本の(田舎の)変わらぬ風景だっただろう。
「そんなことはない!」明治、大正、昭和と変わってきたはずだ!と云うかもしれない。
しかし、私の地域の近くに「千年家」と呼ぶ家がある。
それは「築後1000年ほど経っている家」と云う意味である。
・・・実際には「室町時代」の建築様式だそうである。
この家を外から見ても、中から見ても、私が子供の頃の「我が家」と変わらない!
ほとんど同じ造りなのである。 ・・・だから生活様式も変わらないと思うのだ。
従って、おそらく室町時代(つまり約700年前)も村の風景は同じだった気がする。
風景は「風」である。
そして、風そのものは存在が見えない!
しかし、風は人の生活そのものを、匂いで運んでくれるのである!
今、このような風景は完全に破壊され、日本中が「金太郎飴」のような生活になった。
そして「合理的な」生活からは、匂いも消え、特徴も無い無機物のような集落になった。
自然の環境サイクルも断ち切り、自然のエネルギーサイクルも断ち切った。
今、ひたすら破滅への道を突き進んでいるように見えてしかたがない!
人間らしい「風の見える風景」を取り戻すことは、もうできないのだろうか?

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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