『風の見える朝』

No.79 偉大な日本人「小栗上野介忠順」

投稿日:2007/01/05 投稿者:大西秀憲
歴史は正しく伝えなければ(また教えなければ)ならないと思う。
ところが歴史は時の権力者によって、都合よく変えて伝えられることが歴史上多くある。
近くは、まだ歴史とは云えない「大東亜戦争」(アメリカでは太平洋戦争)がそうである。
・・・この戦争は全部日本が悪かったことに歴史が塗り替えられている。
歴史で最も大きく変えられたのは(革命とも云うべき)明治維新である。
徳川政権を武力で倒し、新たに権力者になった薩摩・長州は徹底的に徳川時代を否定した。
例えば私は学校で次のように習った。
「勝 海舟」が咸臨丸で太平洋を渡りアメリカを訪問して大統領と会った。
この様に教えられたから、疑いも無く「勝海舟は偉い人だ!」と思い込んでいたのである。
ところが、これはほとんど嘘で、実際に偉い人は他に居たのである。
その人の名前を「小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)」と云う。
明治新政府は「小栗」を実際にも、歴史からも「抹殺」したかったのである。
要するに、表に出てもらっては「困る人物」だったのである。
なぜ?困るのか、それは「小栗」が余りにも優秀で立派だったからである。
新政府としては、旧幕府とその人材は徹底的に「無能力者」として糾弾する必要があった。
その槍玉の最大対象が「小栗上野介」だった。
現に「小栗」が行った仕事によって、日本の近代化(特に工業化)は急激に進んだ。
この功績が明かになると「明治新政府」の面目が立たなかった。
従って、歴史の表舞台から消したのである。
小栗に代わって歴史の表舞台に出たのは「勝海舟」である。
彼は、非常に上手く立ち回り、明治新政府にも取り入り、そして全部を自分の手柄にした。
私は偶然「小栗上野介」の詳細な本に巡り合うことによって、この偉大な人物を知った。
(因みに、その本の著者は「坂本藤良」講談社発行「小栗上野介の生涯」である。)
小栗は東京・神田に生まれ、2500石どりの直参旗本で十二代目の当主である。
若いときから「文武両道」に優れていた。
そして、井伊大老の命によりアメリカ派遣の使節、主要3人の一人に選ばれたのである。
それは小栗が32歳の時であった。
「日米修好通商条約」の批准書交換「訪米使節」となった小栗上野介。
正使は「新見豊前守」副使は「村垣淡路守」そして監察として「小栗豊後守忠順」の三人。
大規模な使節団が組織され、総勢77名であった。
使節団は1860年1月18日アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗り組み、出航した。
一行はサンフランシスコに到着後、パナマに南下、そしてニューヨークに着いた。
そしてブロードウエーで市民の大歓迎を受けたのである。
80万市民はもちろん、アメリカ側が用意した歓迎の出動兵士は6440人であった。
「英国女王」の訪米も遠く及ばぬ大歓迎であったと、当時の新聞は書いている。
市民は手に手に「日の丸の旗」を振って、使節団を歓迎した。
そしてワシントンで時の大統領「ジェームズ・ブキャナン」に謁見した。
そして使節団は「国書奉呈」の儀式を行ったのである。
使節団はこの儀式を「純日本式」で行った。
その時の服装は「狩衣」を着て「鞘巻の太刀」を帯び「烏帽子」をかぶった。
このときの様子を当時の新聞が非常に詳しく書いている。
各地の歓迎会でもそうであったがアメリカ人が驚いたのは「使節団」の態度であった。
彼らは「常に堂々として、威厳に満ち、そして知性に溢れていた」のであった。
当時のアメリカ人から見れば「異様な姿」であったが、接する内に「人間に魅了」された。
訪問中、日を追うごとに使節団の人気は高まり「詩と唄」までできたのである。
江戸時代、永い時間をかけて熟成した「文化と教養と武士道」が彼らに伝わったのだ!
使節団一行は、大西洋からアンゴラ、アフリカ喜望峰を廻りクリスマス島、シンガポール、
香港、台湾を通り、品川沖に停泊。1860年11月9日に帰港したのである。
ところが使節団を待っていたのは帰国歓迎どころか、実に冷たい日本の態度であった。
井伊大老が暗殺され、「尊皇攘夷」の風潮が非常に高まっていたのである。
実にタイミングが悪かった!
正使の乗った米艦「ポーハタン号」とは別に幕府が用意した船が「咸臨丸」である。
護衛艦「咸臨丸」の司令官は「木村摂津守喜毅」である。
筆頭乗組員として木村が指名したのが「勝海舟」である。日本人総勢96人。
(この中に福沢諭吉、ジョン万次郎がいた)
「咸臨丸」の目的は「日本人の手で太平洋を航海すること」であった。
出航にあたり、咸臨丸にはアメリカ海軍将兵11人が乗り組んだ。
ところが航海に出ると悪天候で船が揺れ、日本人乗組員はほとんど全員がダウンした。
実際に船を操船してサンフランシスコに着けたのは「アメリカ人将兵」の力であった。
勝海舟などは船乗りとしては最低であり、航海中ひどい船酔いでダウンしていた。
そして、航海中ついに自分の船室から出なかったのであるが、文句だけは云った。
船が「ハワイ」に着いたときなど「ここから日本に帰る」と云って、木村を困らせた。
とてもではないが、歴史が教える「艦長・勝海舟」の姿は微塵も無い!
しかし、一旦日本に帰ると勝は急に態度が大きくなり「全てを自分の手柄」として吹いた。
とにかく「勝海舟」は「自己主張」と「自己PR」にかけて天才であった。
ここで間違ってはいけない!勝海舟はサンフランシスコに行っただけである。
ニューヨクやワシントンに行って「正式に」使節の仕事をしたのではない!
この様な勝の有様は福沢諭吉も我慢ができなかったらしく「痩せ我慢の記」で書いている。
しかし、なぜか?後世の歴史は勝海舟の「一人舞台」のように持ち上げ評価したのである。
実に歴史の不思議である!
(このような訳で、私が一番嫌いな歴史上の人物は「勝海舟」である)
ところで小栗上野介は経理や科学に知識が深く、訪問中も多くの実績を上げている。
例えば不平等な「為替レート」を粘り強く修正したのは小栗である。
これはフィラデルフィアで行われ、小栗は驚くべき能力を発揮したのである。
このとき小栗が使った「天秤ばかり」と「そろばん」にアメリカ人は驚きと感心した。
「天秤ばかり」は実に正確無比の計量器であった。
もっと驚いたのは「そろばん」であり、アメリカ人が大勢でする計算を瞬時にした。
アメリカ人から見れば「そろばん」は魔法のように見えただろう!
しかも計算が速いばかりでなく、計算結果は「正確無比」であった。
・・・とにかくアメリカの造幣関係者は「腰を抜かすほど」驚いたのである。
もっとアメリカ人が驚いたのは日本の度量衡が「十進法」であったことだ。
江戸時代から日本では既に「十進法」を取り入れていたのである。
これに比べて当時のアメリカは実に複雑な度量衡法を採用していたのである。
小栗は帰国してから約7年半ほどしか生きられなかった。
この短い期間に「日本のため」に実に驚くべき「仕事」を次々と成し遂げたのである。
先ず「横須賀製鉄所(造船所)」を建設した。
日本の造船業と重工業は全てここから生まれたのである。
そしてこの製鉄所では「西洋式複式簿記」により近代的マネージメントが採用された。
また小栗は日本最初の株式会社である「兵庫商社(貿易と銀行)」をつくった。
そして日本最初の「兌換紙幣」を発行したのである。
・・・これらの仕事は明治維新の前の話である。
小栗が成した仕事が、そのまま明治新政府の基盤になったのである。
現在の我々はどれだけ小栗の恩恵をこうむっているか、計り知れないものがある!
しかし、小栗の偉業と名前さえ、歴史の舞台から抹消された。
・・・全て薩摩・長州の手柄にするためには、小栗は実に邪魔な存在であった。
江戸城が開城され小栗は幕府からお役御免になり「上州権田村」に住まいを移した。
1868年4月5日、小栗は官軍に出頭を命ぜられられ、そして捕縛された。
そして「取調べもなく」有無を言わさず「烏川の川原」で斬首されたのである!
薩摩の一士官による現場での判断であった。
斬首したのは「原 保太郎」、のち貴族院議員になった。
いやしくも、幕府の勘定奉行や要職を歴任した当代随一の幕臣に対して斬首である。
いかに新政府が「小栗を早く抹殺」したかったか!これをみても十分にわかる。
このようにして日本の頭脳「小栗上野介」は「全く罪無く」死んだ。
小栗の最後の言葉は「お静かに・・」であった。
満41歳(男の厄年であった)
あとには自分の都合の良いように、言いたい放題云う「勝海舟」が残った。
そして歴史は今日のように曲げられたのである。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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