『夢のつれづれに』 - 私の願い -

No.90 若い日と蜂さま

投稿日:2023/01/27 投稿者:大西秀憲

今から55年前(1968年頃)私は「電器屋の店員」をしていた。
いわゆる町の電器屋さんであり、従業員は私一人だった。・・・あとは大将(経営者をそう呼ぶ)と奥さんの二人
なぜか?勤める店員が長続きしないという世間の評価がある店だった。
その頃、いわゆる店員に対する世間の評価は欠落人間(今で云う「落ちこぼれ」)的で極めて低いものだった。
(世間の人は露骨に言わないが、一人前の社会人扱いではなかった)
給料も極めて低く、健康保険も労災もなく、休みは月2日(第一と第三日曜日だけ)で、朝8時~夜9時までの仕事だった。
どのくらい給料が低かったかと云うと「店員をしている男は嫁がもらえない」と云われていたのだ・・・
その頃は家電が凄い勢いで普及している時代であり、小さな我が町にも電器屋が10軒もあった。
しかし店員の待遇はどの店も同じようなものだった。・・・経営者が時折会合をして「協定」していたのだ。
私は「足掛け3年」そこで店員をしたが、その間保険が無いので医者にかかったことがなかった。
  ・・・少々の身体の不調は薬局で薬を買うか、山野の薬草(おばあちゃんの教え)を採って自分で治した。

極めて酷い条件で店員をしている人の中には「将来独立」して店を持つ夢があった。
また、素人が「実際に仕事を教えてもらっている」と云う事実もあったから我慢する気になったのだろう・・・
(それで理不尽な扱いをされる店員仕事に耐えている面があったのだ)
いきさつは後で書くが、私も店員をする以上「将来独立して店を持つ」と云う夢があった。
いわゆる世間で云う「のれん分け」であり、大将も最初の頃は「そんな風につぶやいていた」のだ。
・・・従って、私も耐えたのである。
私は2年目に入ってから、「のれん分け」は非現実的で、店員を騙して繋ぎ止めるための「戯言」だと分かった。
・・・全く酷い話で、「この戯言」の呪縛で20~30年も店員をやった人の人生は、何なのだろう?

私は19才で社会人となり、その時入社したのは「ポンプメーカー」で、化学用ポンプでは日本の最大手だった。
(私は、シャープとグローリー、どちらの電気技術者中途採用試験にも合格し、採用通知を貰ったが辞退してポンプメーカーにした)
とにかく仕事が面白く、夢中でがむしゃらに働いた・・・月の残業時間は常時250~300時間で、徹夜の連続だった
私は入社僅か半年で「修理品」の主担当に抜擢された。
化学用ポンプは様々な薬品を回す・・・中には手に振れたり、吸ってはいけない薬品、空気に触れてはいけない薬品など様々。
これらと連日格闘する中で私の身体に異変が出てきた。
PCBや水銀蒸気や特殊薬品を常時吸う中で「肝臓」がやられたのだ・・・全身に巨大なジンマシンが出るようになった
そして遂にダウンした。
身体の回復と養生をするため同社を退職した。 ・・・その後何度も上司が家に来て復職を促された
私が退職してフリーだと云う話が伝わり、「石野電器商会の大将」が何度も何度も家に来て、口説かれた。
・・・曰く「ワシを助けて力になってほしい!」
こうして私は半ば情にほだされて、町の電器屋さんの店員になることを承知したのである。

ここで私が担当した「電器屋店員の仕事」は非常に幅広く、次のようなものだった。
テレビ修理・・・当時のテレビはブラウン管と真空管で頻繁に故障した。 ・・・これが得意分野
洗濯機修理・・・パルセーターと呼ぶ水を回転させる部分の「軸受け」の水モレ破損
ホームこたつ修理・・・ほとんどが「コード切れ」と「玉切れ」の交換
 これらは出張修理
電気工事・・・数十年前の電気配線の「家ごとやり替え工事」
 以上は特に手取り足取り無く、最初から全て自分一人で完璧にできた。
  (必要な資格は電気に関する国家資格は全て持っていた)・・・当然、大将より多く
ごとうび(5日、10日、20日)と月末の集金
 大将の自宅の家事手伝い・・・これが結構多い
 大将の同居父母(ジジ・ババ)の家事ヘルプ(買い物も)

その頃、テレビ放送に関して激変があり、それは「VHFからUHF」への切り替えである。
私が住んでいた所は山奥で「電波の谷間」であり、テレビ電波は大阪生駒から受けていたが、ノイズだらけで画像とは呼べない代物。
かすかにチラホラと映像らしきものが見える程度(スノーノイズと呼ぶ)
そこで出てきたのが電波をUHFに代えて地方にUHFの電波塔を建てて視聴を改善するというものだった。
最初にUHFの試験放送を見た時には本当に驚いた! 鏡を見るように画面が綺麗だった! ・・・ノイズは全く無し
しかし、UHFを受けるには「専用アンテナとコンバーター」が必要だった。・・・コンバータはUHFをVHFにする変換器だ。
鮮やかな画面を見た人々は熱望して、電器店には「注文が殺到」した
コンバーターはテレビの付近に置くが、UHFアンテナは屋根の高い位置に取付ねばならない。
私はこの取付工事に追われ、一番多い日で「一日に9軒」取り付けたことがあった。・・・もちろん全て一人で。

このような繰り返しの中で「あの悪夢」が起きた。
それは「藤井さん宅」にアンテナとコンバータ工事をする中だった。
「はしご」で一段目の屋根に上がり、そのはしごを持ち上げて2段目の屋根に掛けて「切妻の端」にアンテナを取付ける事にした
アンテナはパイプに取付けるが、そのパイプを取付ける「H型取付具」を先ず屋根に固定するのだ。・・・釘を打ち込む
難なくそれを取付けて、私は木材を貫通した釘が気になり、その釘を曲げて抜けないようにしようと思った。
そこで、屋根の切妻の裏に頭を入れて「金槌」で力一杯叩いたのだ。
その瞬間「無数の何か」が私の顔と頭に押し寄せた! ・・・「ブーン」と云う音と共に
それは「あしなが蜂」だった
私が叩いたのは(手元が狂って)ハチの巣だったのだ・・・巣中のハチが私の顔と頭に群がった!
逃げようにも、屋根の上で、瓦の上だから素早く動けない・・・その間も「ハチは刺したいだけ刺した」のだ
たちまち、腫れて目が見えなくなり、意識が怪しくなり、そのまま2段階の屋根を転がり落ちた・・・

大きな音がしたのだろう!「何事や!」と家の人が落ちた所に出てきた
奥さんは私の顔を見て「えらいこっちゃ!」「顔がボコボコになっとるで!」と云った。
「はよ、お医者さんに行った方がええで・・・」と云う奥さんの言葉に従うことにした。
落ちた時に、あちこち強く打ったらしく、動くのがままならなかったが、私は「這いながら」近くにあった医者に転がり込んだ。
私は目が全く見えないので、藤井の奥さんの「こっちやで」「右やで」と云う声を頼りに、文字通り「道を這いながら」進んだ・・
行ったのは運よく現場のすぐ近くにあった「中川医院」だった・・・幸い店のお客さんで院長とは顔なじみだった
先生は「どないしよったんや」、「えらい酷い事になっとるなあ」と云いながら、とりあえず注射を打ってくれた。
「これだけ刺されたら、ちょっとのま、寝とらなあかんで」と言ってくれた。
私は好意に甘えて、少しだけ休んでから、現場から3Km程離れた店に一人で帰った
店では一般的な慰め言葉だけで、現場の片づけも後始末も「治療代」も自分で払った・・・保険無く、100%自費だから高い!

私はこの夜寝ながら考えた
そして得た結論は「店員を辞める」ことだった。
理由として整理したのは:
①店の、のれん分けは嘘 ②店員は安く便利に使われるだけ ③夢が描けない ④店員は男一生の仕事ではない の4点だった。
このようにして私は店員と、町の電器屋と決別した。
(ちなみに私が辞めてから以降、大将が高齢で店を閉めるまで、店には店員が来ていない)
今から思えば、この決断は非常にタイミング良く、適切であったと思う。
正に「蜂のおかげ」である。
非常に痛かったが「このハチ刺され」が無ければ、まだ当分ズルズルと「情で店員」をしてチャンスを逸していたかも知れない・・
店員を辞めてから数か月、私は無職で自由に暮らしていた・・・「バタバタしない!」がその頃の心情

そして1969年秋のある日、ビッグな「朗報」を目にした。
それは新聞で「NECが電気技術者の中途採用を行う」との募集情報だった!
応募の条件は、25歳以下で、工業高校電気科卒以上で「電気(電子系)3年以上の経験者」であることだった。
私はすぐに書類を添えて応募し、指定の試験日に受検した・・・科目は、英語、数学、電気だった。
その日は、僅か1名の採用枠に「実に十数名」が試験に参加していた。
私は、その後2~3回の面接を受け、「採用が確定」した!・・・思えばすごい倍率だが、私の多くの国家資格が評価されたと思う。

そして翌1970年1月27日付けの採用で一人東京へ向かった。・・・大阪万博の年である
指定されたNECの場所は、山手線田町駅から(東京タワー方向に)徒歩数分、非常に歴史と風格を感じる4階建ての社屋だった。
「勤労部」に行き、引渡されたのが三田事業場(7工場4階)交換機グループ・電機機器事業部・工具課・工具設計係だった。
いわゆる「生産技術グループ」であり、そこには本物の凄い技術者が多く居るエリート集団だった。
・・・例えば、昼休みに彼らは「コントラクトブリッジ」を楽しんでいたことからも分かると思う

昨日まで、「兵庫県のチベット」と呼ばれる山奥の電器屋で最下層の店員をしていた人間が、いきなり東京のど真ん中に出たのだ。
そして、電気通信系で日本を代表する会社のエリート集団の中で仕事を始めたのだ!・・・この時私は22才
(この頃、職場で何かと指導をして頂いた「渡邊さん」とは、現在も交流が続き私の「師」である)
まるで「地獄から天国」に移ったような環境変化である。
(結局「四半世紀」サラリーマン生活を送ることになる)

痛かったが「ハチに刺されたお陰」である! ・・・嗚呼!ハチ様様だ

もし、この時転職していなければ今日の私は無いし、当然「テクノスジャパンも無く」全く違った人生になっていただろう。
そう思うと、この時のハチが「天使」に見えてくる!!
                            完

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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