『夢のつれづれに』 - 私の願い -

No.12 気配り、こころ配り、税金配り

投稿日:2014/03/03 投稿者:大西秀憲

ここに「月収10万円」の家庭がある。
この家庭が「月20万円」の生活をしたらどうなるか?
当然、10万円足りないから「借金」をしなければ、家庭が成り立たない。
つまり、家計の「50%を最初から借金」で賄うつもりである。
しかも、毎月毎年、借金を増やし続けて行き、借金は膨大な額になっている。
こんな家庭が継続できる訳がない。   ・・・また、借金を返す見込みも全く無い。
とにかく、家計は二進も三進も行かなくなっているのである。
   ・・・上記の場合、ごく普通の常識ある家庭では、9万円で生活をする。・・・1万円は将来のため貯金する。
当然だが、自分の「収入の範囲内」で生活をする。
これが、当たり前の話である。

ところが、そんなこと全く、お構い無しに、「収入の2倍の派手な生活」を続けている家庭がある。
それは「日本国」と言う家庭である。 ・・・「国の予算の半分」ほどは借金だ。
累積した借金はついに1,200兆円にもなった! ピンとこないが、これは「12,000,000億円」である。
返す目途は全く無い!
とにかく現状に目を向けず、問答無用の「借金先送り」である。 ・・・将来の子孫が何とかするだろう!という甘さ。
冗談じゃないが、将来何とかなる訳がない!
  ・・・できるとすれば「徳政令」だけである。

国の借金を実行しているのは国民ではない。  ・・・「政治家と官僚」が行っている。
なぜ?こんな無軌道な無節制な借金をし続けるのか?
理由は二つある。
 ① 国民に良い顔をするため。 ・・・それが「気配り、こころ配り」=「情」である。
 ② 国民の貯蓄が多いため。  ・・・一説では1,500兆円もあるそうだ(為政者は、これをあてにしている)
日本人ほど国を信じて、せっせと「貯金」をする民族はない。
こんな善良・勤勉・正直な国民を率いる「政治家・官僚」は、他国に比べると「非常に楽」である。

問題は「気配り、こころ配り」である。  ・・・これが「度を越している」のだ。
政治家・官僚の「どこにも良い顔をしたい」、「誰にも、良い顔をしたい」、この「こころ配り」が災いしているのである。
税収も無いのに高速道路を造り続け、金も無いのに福祉に金をかけ、医療に金をかけ、近隣諸国に金を配る。
金がなければ(つまり税収が無ければ)、こころを鬼にして「カットか減額」するのが常識である。
これは「問答無用」でやらねばならない。  ・・・しかし、日本では、ここに「情」を絡めるのだ。
他所は知らないが、自分に関係する部分は「絶対にカット・減額除外」で、それどころか「増額」する有様である。
かくして、ドンドン国の予算は膨らみ、(収入がないので)借金は膨らむ一方となる。
   ・・・やはり日本は「情」=「気配り・こころ配り=空気」が支配する国なのである。
このようにして、せっせと貴重な「税金」を配っている。 ・・・金を貰って怒るヤツはいない
ここから、一部国民の「たかり」が蔓延するのである。

上記だけでなく、「気配り、こころ配り」は、日本では随所に見られる。
その原因は、異常な「神経過敏」と反動の「へりくだり」である。
それはなぜか?
 ① クレームを恐れている。
 ② 皆、良い子になろうとする。    この二つである。(結局、政治家・官僚と同じである・・・)

例えば駅のホーム :
「ドアを閉めさせていただきます」とアナウンスしている。
たぶん「ドアが閉まります」とアナウンスしたら、わざわざクレームを付けた「輩」がいたのだろう
99.99%の人は、このようなことにクレームを付けない。
極めて一部の人のクレームに、全体が左右されている不自然さを、誰も不思議に思わない。
のべつ幕なしで、わめき散らす「アナウンスは騒音であり」、アジアの途上国における「車の警笛と同じ」である!
公共のアナウンスは少ないほどよい。

TV放送中の画面に、しばしば「ただ今不適切な発言が・・・・お詫びします」の表示がでる。
普通の感覚で(つまり常識で)見ていると、何処が、何が、不適切なのか?ほとんど気がつかない。
ところが、放送を特別な目で見て、些細なことを取上げて、放送局にクレームをつける「輩」がいる。
極めて少数で特殊な考えのクレーマーだが、メディアは「神経過敏」に反応して、お詫び表示を流す。
ほとんどの人は常識があるから、こんなことにクレームをつけ、電話やメールはしない。
結局、クレームを恐れ、良い子になろうとする。

また、差別用語というのがある。 ・・・何が、そうなのか?さっぱり分からない。
最近、この差別用語の数がだんだん増えているように思う。
一応「配慮して」が、建前になっているが、これも「神経過敏」になっている。
要するに、気配り、こころ配りが必要以上に過敏になっているのである。
その結果、何が起こっているか?
物事の本質「本当のこと」が言えない状況が蔓延している。
   ・・・何事も「過ぎたるは、及ばざるが如し」である。

今の気配り、こころ配りは、要するに「臭いものにフタ」をしているだけである。
   ・・・つまり、さわらぬ神に祟りなしだ
(臭いものは、何も変っていないのである)
物事の本質は、どのように知恵を絞って、臭い匂いを緩和して行くか?ということなのであるが・・・
「核心をぼかして」きれい事で、済めば何事も世話はない!

多数の人が社会を形成して生きていくためには「気配り、こころ配り」が必要なことは言うまでもないことだ。
しかし、これが過度になると弊害が出てくる。
国では財政が破綻し、社会では物事に対する「解決が複雑になり」、時間がかかり、結果、社会コストが高くなる。
何事も、「中庸・ほどほど」がいい塩梅なのである!

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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