No.13 空気が支配する国
日本は普通の国になる必要がある。
普通とは、常識が通る国であり、常識とは大人の世界に通用することで、本当の大人は清濁併せ呑むものだ。
今の日本は大人の国ではない。
一言で云えば今の日本は「メルヘンと独善」の幼児の国である。
そして、「空気」が全てを支配する異常な国である。
支配者は空気なのだから、具体的に誰が悪くて、誰が良いのか?極めて曖昧であり、これが日本である。
一例を挙げる。
お詫び記者会見:
ずらりと並んだ、社会的地位が高い人が、一斉に大きく頭を下げて深く、永くお辞儀をする。
そして、説明の内容は極めて「情緒的」である。
このメディアの「みそぎ」が終われば、一応「国民の皆様に」説明とお詫びをした事になり、まず一件落着になる。
なぜ?頭をさげるのか?
なぜ?お詫び内容について、不始末について、論理的に説明しないのか?
何か事があると、偉い人をお詫び会見に引っ張り出す「空気」がある。
また、偉い人達が一斉に頭を下げると、許すという「空気」がある。・・・頭を下げる人も自分が悪いとは思ってない。
極めて、日本的である! ・・・何の解決にもならない。
・・・こんな異常なことを白昼堂々と、天下に晒してやっているのは、世界中で「日本だけ」である。
「人権と平等」についても異常なことが普通になっている。
どんな人でも、どんな時でも人権と平等は金科玉条で、これに異議を唱えることは許されないのが今日の姿だ。
12,700万人を全て横一列に扱うのが平等だと、本気で思っている不思議な国が日本である。
平等とは、制度として「チャンスは等しく与えますよ」と云うだけのことである。
ところが日本では平等が、当然の、不変の、絶対的思想として「侵さざるべき神聖さ」で生きている。
平等は国から民に「当然に与えられるもの」だと多くの日本人は思っている。
従って、(実に不思議なことに)人は生まれながらにして「平等ではない」と日本では云えない。
・・・へんな「空気」がある
福祉・障害者についても変な見方=空気が蔓延している。
福祉に携わる人は、清く、正しく、正直で、高邁な精神に富んだ人格者だ、と云う見方である。
また、障害者も清く、正しく、正直で、人間性も美しい人、という空気がある。
例えば、健常者と障害者が同じことを主張したら、ほとんどの場合「障害者が正しい」と軍配が上がるだろう。
生活保護世帯が急増、現在156万世帯が受給だが、不正・不適切受給が無く、本当に全てが困窮者だろうか?
メディアも、ほぼこのようなスタンスで報道する。
本当にそうだろうか??
ところが、「そんなことはない!」と日本では言えない。
・・・へんな「空気」がある
凶悪事件が起きるとメディアは100%加害者が悪いように報道する。
しかし(通り魔事件は別だが)本当に100%悪いことが、この世の中にあるだろうか?
「そんなことないだろ、被害者にも悪いところがあったのでは?」 などと云えば、「空気」の袋叩きにあう。
昔から云うように「盗人にも3分の理」があるのが普通で、それが常識である。
( 「盗った者より盗られた者の方が悪い」という世界の常識は、残念ながら日本では通用しない)
要するに「普通のことが言えない」のである。
・・・それが「空気」である。
これは何も最近のことではなく、戦前も同じ状態であった。
戦前の世論いわく、「鬼畜米英」、「お国のため」、「非国民」、「根性が足らん」・・・・作り上げた空気は数々ある!
一度空気ができると、それに逆らうことは出来ない。
その結果、何か良くなったか?
・・・逆に悪くなった。
(断っておくが、私は戦争を望んだり、美化したり、煽ったりするのではない、戦争は妄りにするものではない)
しかしであるが、どうしても戦争しなければならぬとなれば、勝たねばならない。
勝つためには、戦争の大義名分が必要で、戦略をたて、武器を揃え、兵を揃え、情報を集め、食糧を確保する。
そして、前線への補給を担う兵站が極めて重要であるのは云うまでもない。
戦争をするには、これらを総合的に、かつ、論理的に考えて進めねばならない。
・・・ところが、戦前の日本はこれらを「情緒的」に進めたのである。
情緒は「空気」である。 ・・・婦人に「竹やり」の訓練を課して、何になるのか?
・・・とにかく、全てを精神的な構造に転化したのである。
その結果、負けた。 ・・・食糧も武器も弾薬も補給せずに戦えというのだから、負けて当然である!!
日本を支配しているのは、いつの世も「空気」である。
要するに、変な空気が蔓延して、「見えない力が日本を支配」しているのである。
日本人の精神的な構造は何も変わっていない。
逆に云えば、意図的に空気を作り出した為政者は強く、国民を総まとめにして、あらぬ方向へ引っ張っていく。
走り出したら、どうにも止まらない!
そして、それが破綻すると、「以前を総否定の懺悔」をして、また新しい懺悔的「空気」を作っていく。
何が正しく、何が悪かったのか、何が良くて、何が間違っていたのか、最も重要な点を論理的に検証しない。
世界の国々は「悪賢く、ずるく、狡猾」である。
紳士面してニコニコと握手しているが、他方の手には刃物やピストルを握り、足は相手を踏んでいる!
・・・シャレーとして世界平和を唱えながら、一方では機銃・地雷・機雷・戦車・ミサイルを売っているのだ。
これが世界の現実であり、「相好をくずして、無邪気にニコニコと握手」しているのは、日本だけである。
・・・ここに「外交と戦略ができない」日本の姿がある。
日本は世界並みに「悪賢く、ずるく、狡猾」になる必要がある。
・・・現実は、きれい事では済まないのである。
世界中の人が昔から「夢見るメルヘンの国」、これを実現しているのは世界で唯一、日本である。
こんな、豊かで、正直で、勤勉で、均一で、高質で、安全で、平和で、理想的な国、は絶対に世界に無い!
(メルヘンについては以前「風の見える朝」のコラムで書いたので、興味があれば弊社HPからご覧下さい)
世界200カ国の1国、世界人口70数億の1.2億人、これだけが世界で唯一の平和で豊かな生活をしている。
一方、日本人は、そんなことに気付かず、(日本人の現実の生活は)当たり前だと思っている。
そんな独善(独良)がいつまでも世界で通用する訳がない。
・・・これが崩れた時の対応と覚悟を、日本人は全くしていない。
世界の中で一国の行き過ぎたメルヘンは、しょせん「世界のバーチャル」である!
日本は世界の中で「互角に渡り合い」、現実社会で生きてゆくには「メルヘンからの脱却」が必要だ。
どうしたら、「悪賢く、狡猾で、非道な」民族に生まれ変わる事ができるか?
これが出来たとき、初めて日本国民はグローバルになる。