『夢のつれづれに』 - 私の願い -

No.88 若い日の整理

投稿日:2022/05/10 投稿者:大西秀憲

先日、宍粟市山崎町にある長水山という山に6人で登った。・・・一人は背中におんぶされたので、自力では5人
この山は標高が584mあり、戦国時代は地域の重要な山城で「長水山城」と云う。。
城主は赤松一族の宇野氏であり、羽柴秀吉の播磨攻めの際に、その大軍によって落城し、宇野氏は滅び土塁と石垣だけが残った。
現在は宇野氏を供養する寺と野面積みの苔むした石垣の上の本丸跡に小さな建物があるだけで他は当時を偲ぶものはない。
頂上(要するに城跡)に上ると東方面の眺望が良く、眼下には国道29号線と、それに沿うように揖保川が望める。
低い山であるが非常に登りにくい。(但し、宇野ルート)
理由は登山道が荒れているからで、沢を歩くため水で道が流され石がゴロゴロしているので歩きにくいのである。
先日は登るのに1時間20分もかかってしまった。
(私以外の者はドンドン先に行き、一人だけ休みながらゆっくりとマイペースで登ったが、体力の衰えを痛感した!)

なぜ?私が長水山に登ろうと思ったか?
それは、私の「若い日の確認」をしたかったからである。
人は色々の出来事の中で日々暮らしているが、ほとんどの出来事は忘れてしまうものだ。
しかし、強烈な出来事=体験は何十年経っても決して忘れず、そのシーンが鮮やかに蘇るものである。
他の人から見れば「なんだそれぐらい!」かも知れないが、私にとっては生涯忘れることが出来ない出来事だったのだ。
私は後期高齢者の仲間入りなので、足腰が立つ内に山に登って、54年前の激辛体験を確認したいと思ったのである。
(・・・私以外の5人は何の因果か、連れにされて、しんどい山登りをする羽目になったので気の毒なのだが)

昭和43年(1968年)ごろ私は、山崎町福原町にある「石野電器商会と云う町の電器屋」の店員をしていた。
店員は私だけで、住居兼店舗には大将と奥さんの合計3人だけの小さな店であった。・・・大将とは店主の呼び名
朝は8時から夜9時まで仕事で、休みは第一日曜日と第三日曜日の「月に2日の休日制」であった。
仕事の内容を紹介すると:
朝7時半ごろに雨戸を開けて開店、すぐに雑巾で拭き掃除とほうきで掃き掃除と水打ち、それが終わると展示商品磨き。
それからはお客さんからの電話に即応した出動(テレビの修理、ホームこたつの修理、洗濯機の修理、電気工事、等々)
UHFアンテナ取付(一日に9軒取り付けたこともある)とチューナー取付とその取扱い説明。
月に6回の集金(5日、10日、15日、20日、25日、月末)
要するになんでもかんでも一人でするのだ
因みに店員=小僧は、その家の所有物的な所があったので、その家の買い物やお使いや年寄りの世話などをするのも当たり前だった。

そんなある日のこと、店に50~60歳位のおっちゃんが自転車でやって来た。
自転車の荷台には色々な物がゴムバンドで括ってある。
時々店に寄る人で、電池や電球などを買っていたので、私はその顔と共に「どこの誰か」は知っている。
店には3人共居たのだが、そのおっちゃん=お客さんは店の前から「石油ストーブが欲しい」と言った。
そして当時のストーブは縦型(円形)、横型がある中、「横型がええなぁ」と云って、大将と値段交渉して買った。
  ・・・ここまでは、何でもないことで店では日常茶飯事のシーンである。
次に、このおっちゃんは「自転車にようけ積んどるで、ストーブ乗せられんで、持ってきてくれい」と云ったのだ。
更に、「あんなあ きょうの晩は冷えるで、今日中に頼むわ」と付け加えた。

この言葉を聞いて「私はゾッと」した。
なぜなら、このお客さんの家は、冒頭に書いた「長水山の頂上」にあるからだ・・・要するにおっちゃんは寺守である
そこに運ぶのは、もちろん店員である私の仕事である。
そしてそして次のおっちゃんの言葉を聞いて「目の前が暗くなった」のだ!
「あんなあ ついでに平田石油で一斗缶に石油を買うて 持ってきてくれいや」
更に続けておっちゃんは「どうせなら ついでやさかい 一斗缶2つにしてくれいや」と、さも当然の如く平然と云った。
ストーブは仕方がないにしても、家庭で使う石油を電器屋が運ぶ筋合いは無い!
・・・私は大将の言葉を待った! 石油はちょっと勘弁してえな!という大将と奥さんからの言葉である。
ところが大将は「ほんなら 大西君今から持って行ってくれいや」と云ったのだ。

とにかく大将の命なので配達しなければならない。
商品は横長の段ボールに入った大きな石油ストーブだったので、ロープを使って背負えるように荷造りをした。
そして店から2Kmほど離れたガソリンスタンドに行き一斗缶2缶の石油を買って、運搬を開始した。
電器屋の店から長水山の登り口までは約5Kmほどある。
実は長水山頂の家には何度か行っていた。 例えばテレビ、冷蔵庫、洗濯機のお届けやテレビの修理である。
山の頂上に人力で重量物を運ぶ困難は、皆さんも想像がつくと思う。・・・要するに「背負って」山を登るのである。
ところが今回の対象は一斗缶=18ℓ2つで、一斗缶は下げて持つ部分が細くて、しばらく持つと指が痛くなり、長い時間持てない!
ストーブは背負っているので楽だが「両手に下げた一斗缶」を持って急な山を登るのは残酷である。
なぜなら、手に提げて運べば分かるが一斗缶の中で石油が「チャッポン チャッポン」と横に揺れるのだ!
急な山道を「喘ぎながら登っている時に、チャッポン チャッポン と横に揺れたらどうなるか? 分かりますか??
スイスイと登ることは出来ないのだ! 登山家が20~30Kgの大きなリックを背負って、山を登っているが、その方がまだ楽だろう
(背負っているストーブは約10Kgほど、石油は二つで36Kgほどあるのだ、合わせて46Kg!)
2歩ほど登っては休み、の繰り返しでとにかく2時間半ほどかけて頂上の家に着いたが、「精魂尽き果てた」状態だった。

登る途中の山道では「なんで こんなこと せなあかんのや・・・」と何度も何度も何度も思った。
「いっそ ここから 一斗缶を谷底に 落としちゃろか!」と、何度も思った。
とにかく余りの理不尽さに腹が立ったのだ!

その頃の私の技術的な仕事の中心は「テレビ修理」であった。 ・・・とにかくその頃のテレビはよく故障した
テレビメーカーは、NEC、日立、三菱、東芝、シャープ、三洋、ゼネラル、ビクター、オンキョウ、などがあった。
夫々のメーカーには型式の異なる(つまり製造年月が違う)テレビが多くあり、全体では非常に多くのテレビが市場にあった。
(テレビの回路図は夫々に異なり、そのほとんどの回路図は頭に整理して記憶していた)
その頃の私は、テレビのどんな故障でも「30分以内」で直せる自信があった。
テレビは「30分で直せ!」が店の大将の常套句であった。
・・・因みに、30分で直すことと、回路図の記憶、故障個所の推定、この技が後にNECに入社してから「絶大な武器」になった。
従って、人間何が役立つか?分からないものだ。
ただ、テレビは本当に難しい難しい技術である、これを認識していたので自分ではプライドと技術に自信があった!
その高度な最新技術を持った私が、584mの険しい山の頂上に石油を運んでいるのだから、自分が情けなくなったのである・・・
(このことは電器屋を辞める原因の一つになったかも知れない)

私が21~22歳の頃の「忘れようとしても忘れられない出来事」だったので、もう一度若い日の苦い経験を確認したかった。
しかし、あれから54年の歳月が過ぎ、手ぶらで登ったのに思うように足が運べず、皆より大幅に遅れて体力の衰えを痛感した。
だが私の思いの整理ができたので、ふもとに帰った時は実に晴れやかな気持であった。
これも一つの「終活」だろう・・・

因みに、長水山城址に登るルートは二つあるので参考のため紹介する。
 一つは、宍粟市山崎町宇野の伊水小学校横からの宇野ルート(私はこのルート)
 もう一つは、宍粟市山崎町五十波(いかばと読む)からの五十波ルート(国道29号線から入る)
登りが楽なのは「五十波ルート」である。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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