No.16 何を信じて生きればよいのか?
宗教の布教活動を真剣にやっている人がいる。
自分が本当に信じているから、人にも勧めることができるのである。
それは「良い、悪い、正しい、正しくない」の話ではない。
人はどの宗教を信じるか、それは自由であり、憲法にも定められている通りである。
この限りに於いて、唯一無二・自分が信じた宗教と信仰を持つ人は幸せである。
・・・しかし、現在の日本では、この幸せな人は一割程度であると思う。
機械文明が進み、変化が激しく、世の中が複雑怪奇になる中で、自分の信じる「基軸」を持たない人が実に多い。
精神的な軸が無いのだから、行動も考え方も、意見も、その都度ブレる。
つまり、極めて刹那的な生き方になる上、迷いと、戸惑いと、鬱積がある。
人間が集団の中で、社会で、生きて行くためには「自己の確立」が重要である。
・・・「人は人、されど仲良き」が大切だ。
しかし、世情を見ると残念ながら、自己の確立(つまり自立)なく、生きている人が実に多い。
言うまでも無いことだが「自立」は「自己中心」ではない。
自己中心の勘違い者は、我を通す(我がまま)・横車を押す、だけで「信じた何か」を持っている訳ではない。
ご都合民主主義の中で、勘違いの「平等意識」だけが一人歩きしている。
つまり、平等を主張することで自己確立したと勘違いしている人が実に多い。
このように、自立は大変難しいことである。
民主主義を手に入れるために多くの血を流してきた欧州と違い、日本は「ある日突然」天から民主主義が降ってきた。
その結果、多くの誤解と、勝手な解釈と、ご都合主義、が本質とは「似て非なる日本型民主主義」として定着した。
多大なる「義務」と、相当な「責任」と、多くの「努力」で欧州の民主主義は「しんどいながらも」成立っている。
日本型では「権利」のみを過大に追求し、義務をないがしろにする。
権利を追求するのは一部の人だが、これに巻き込まれないために、社会のあらゆる所で「当り障りのない」対応を取る。
この結果、本質的に何事も解決しない「先送り」で「きれい事」が蔓延しているのである。
この結果、見事に次のような考え方が無くなり、今や「死語」となった。
* 主人のために命をかける。
* 主人のために懸命に働く。
* 主人を信じて生きる。
これらは、封建的で古いことなのだろうか?
昔はこんなことが言われていた。
・・・「親子は1世、夫婦は2世、主従は3世の縁とやら」
縁の中で「主従の縁」は最も永く、「前前世から続く縁」だ、と言うのである。
・・・つまり、親子や夫婦より強い絆だということである。
これを信じて、殿のために戦場で命を懸けたのである。
これは有る意味幸せなことだと思う。
つまり、信じるものが「ブレない」、そして対象が明確である。
・・・何を信じてよいか?分からない、ということがないのであるから。
そこで、「何を信じて生きればよいのか?」分からない人に提案する。
それは「誰かを信じること」である。
乱暴な言い方をするが、今一度「自分が信じる主人を決め」、「主人のために懸命に働く」と言う事はどうだろうか?
・・・現在で言う主人とは「上司や社長」である。
良いか、悪いか、正しいか、間違っているか、と言う次元ではない生き方である。
そうすると「何を信じて生きるのか?」という疑問が無くなる。
疑問が無いと「迷わない」し、「悩まない」
これも単純明快な生き方で、良いと思うのだが・・・
もちろん、主人と呼ばれる人は「人の何倍も努力と研鑽と精進」をして「人間を磨かねばならない」のは当然である!