『夢のつれづれに』 - 私の願い -

No.17 分を弁(わきま)えると楽になる

投稿日:2014/08/01 投稿者:大西秀憲

「分限者」という言葉がある(・・・正しくは昔にあった)・・・ 今はほとんど「死語」になっている言葉である。
しかし、つい「50~60年前」には、まだこの言葉が生きていた。
分限者とは、「自分(身分)を弁(わきま)えた一人前の人」と言う意味である。
今はもう、この意味さえ分からない人がほとんどである。
なぜなら、学校でも、家庭でも、社会でも、つまりどこでも「分」について、全く教えないからである。

しかしながら「分を弁える」ということは、大変重要な概念であると私は思う。
なぜなら、日本民族は永い間、分を弁えて、生活し、時代を作ってきたのである。
日本の2,000年程の歴史を見ても、「分を弁えない」時代は、僅か50年程である。

例えば、徳川幕府を倒し「維新」を行い、その後の明治を指導した人達は全て「武士階級」である。
(たとえ武士の身分でない人も、苗字帯刀を許された相当の階級出身の人達だ)
世界に冠たる日本の基礎を築いた明治は、巡査から軍将校、官僚から、研究者、銀行、経営者、全て武士だ。
字も読めない、学問・教養もない、貧しい農民や町民の出る幕では無かったのである。
(これは明治の各界で活躍した人物書・歴史書を読めば非常によく分かる。)

では、町人・農民などは「維新に」どのように対処したのであろうか?
一言でいえば「分を弁えて」ひたすら、自分の持ち場で、努力して生きたのである!
   ・・・「分」は長い歴史、古くから続いている村のしきたり、ルール、秩序であるから伝承は簡単だった。
つまり、天地がひっくり返るような維新が行われても「分」はそのままであった。
因みに、なぜ明治維新を革命と言わないのか?
理由は簡単で、支配者が徳川から薩長土肥に代わっただけで、相変わらず武士階級が支配者であった為だ。
(革命とは支配階級が変わることである)

ところで、分を弁えるとはどういうことか? ・・・それは「自分自身を知る」ということである。
人には夫々「分」がある。
これに反するのは自然でなく、従って長期的に見るとあちこちに綻びや不幸が出てくる。
・・・「分不相応」という言葉が示す通りである。

以下、もう少し例をあげて続ける。

江戸っ子親父の決まり文句:
  『 てめエ!なに寝ぼけてんだ! 「でえく(大工)の子は、でえくに決まってんだ!』
親父の短い啖呵で、子供の一生の仕事が決まったのである。
迷いも悩みもなく、子供は親父に従った。

「蛙の子はカエル」 :
  『 おまはん、なに夢みたいなことを言うてるんや、蛙の子はカエルやないか 』
親のこの言葉で大概の子供は、納得できた。
多少不満は残っても、「親が言わはるから、そんなもんや」ということで従ったのである。

とにかく見事に「分」を弁えていたのである。

ホワイトカラー :
今から40~50年程前「ホワイトカラー」という言葉が流行った。
それは「ブルーカラー」に対向する言葉である。 ・・・従って、あくまでも対象は給与生活者である
・・・ブルーカラーは、辛い、しんどい、汚い、危険、暗い、安い、仕事をする人を包括した造語である。
例えば、女工、工員、職工、給仕、などの仕事がこれにあたる。
だから、ブルーカラーは嫌だ!もっと楽で、綺麗で、かっこ良くて、給料が高い仕事がいい!と思うようになった。
「ネクタイを締めて仕事がしたい!」と思うようになった、よって、皆がホワイトカラーを目指したのである!
なぜなら「分を弁えなくなった」ためである。

テニスのラケット :
今から30~40年前ごろ、若い娘が「テニス・ラケット」を持って歩くことが流行った時がある。
文字通り「ネコも杓子もテニス・ファッション」であった。
要するに「テニスという高嶺の花・憧れであった上流階級の象徴」を、戸惑いなく「一般階級が」取り入れたのである。
・・・彼女・彼らは、全身全霊でテニスに打ち込もうとしたのではない。・・・ファッションであった。
(昔は、子供が持とうとしても、世間体(つまり村の序列)があるので「親」が許さなかった)
娘がテニス・ラケットを持った!この時点で「分」が消えた!

ピアノ :
今から30~40年前ごろから、一斉に「ピアノ」が一般家庭に入り始めた。
正に「ネコも杓子も」子供のためにピアノを買い与えた。
自分の金で買って何が悪い! 他人にとやかく言われたり、遠慮する必要は全く無い、ほっといてくれ!!
しかし、買えば良いと言うもんじゃない!音楽には才能が不可欠なのだ。
  ・・・そして、どうなったか? 「ネコふんじゃった」程度でピアノは終わり、その後は「タケモト」行きと相成った。
また、ピアノを楽しむには、それ相応の教養や環境が必要である。
  ・・・一般階級にピアノが入った!この時点で「分」が消えた!

大学 :
今から30~40年前ごろから大学進学が急増を始め、それと共に実に多くの大学が作られた。
大学の進学率は、東京都で約70%、他県では約60%と非常に高率である。
正に「ネコも杓子も」大学に行くようになった。 ・・・「うちの子供は大学生じゃ! どんなもんじゃい!!」
つまり「金で分を買った」のである。
この親バカに応えるべく、雨後の筍の如く、大学と短大ができた。
つまり「金で学歴を売った」のである。
・・・近年、これ位「需要と供給が見事に一致した」モデルも珍しい!

言うまでもなく、大学とは「最高学府」であり教育の頂点である。
しかし日本では、国民の大多数が「学士様」になるのである。 ・・・これは非常に歪(いびつ)な状態である。
・・・普通の国の普通の社会では、こんなに多くの学士は不必要だ!
現に、今現在では多くの学生が自分の進路と自分の選ぶべき仕事に迷っているか、挫折をしている。
これは大いなる矛盾である。

このように見てみると、昭和35年ごろから「分」が消え始め、昭和50年ごろから無くなった。
   ・・・高度成長による生活の豊かさ、それによる平等意識、その結果の個人主義、によるものである。
もちろん、自己研鑽による成長、自己実現、自分を磨き自己を確立して未来志向で生きる人は素晴らしい。
しかし、人は皆が皆、このように精神的・社会的に自立している訳ではない。
誰かに頼ったり、指示や支配を受けたり、付和雷同で生きていく方が「楽だ!」と思う人もまた多いのである。
社会が高度に発達し、変化が加速するにつれ、精神的に付いていけない(受け入れられない)人が増加する。
その人が精神的に「楽に生きていけるなら」、「分を弁えて生きる」ことは良いことだと思う。
要するに、社会の中で「自分の立位置」、「自分の居場所」を決めると楽だということだ。
このような社会を良いな!と思うが、その場合「人の生き方」を批判してはならない!

(古いと言われるのは、もちろん承知の上である。)

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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