『夢のつれづれに』 - 私の願い -

No.82 おばあちゃんの話

投稿日:2020/10/05 投稿者:大西秀憲

おばあちゃん「かつ」は、私の母方の祖母である。
家が同じ村だったので、子供のころからよく遊びに行っていた。
そして私は特に可愛がってもらったように思う。
そんな訳で、小さい頃から「祖母の話」をよく聞いた。・・・祖母は一服しながら(一服とはタバコを吸うこと)
どういう訳か、私は「この聞いた話」をよく記憶している。
そのすべては「絶対に学校では習わない話」であり、私の生き方(哲学)の基幹となったように思う。
このいくつかを「おばあちゃんの話」として皆さんに紹介したい。 ・・・役立つこともあるかもしれないので。
(今の流行りで言うと「シェア」する)

祖母は「福本かつ」と云い、明治11年生まれであり、昭和47年に「94歳」で亡くなった。
ところが、これは私が祖母から聞いた事だが「わしゃ ほんまは明治5年生まれじゃ」と何度も云っていた。
「なんでや」と私が聞くと、「昔はな 生まれても 育たなんだんじゃ」、それでな「6つ位になってから 親が届けたんじゃ」
どこの家でもそうだったんじゃ
「ほやさかいな ほんまは わしゃ6つ年がいっとるんじゃ」と云っていた。
これで数えると祖母は「明治5年(1872年)生まれで、1972年に100歳で死んだ事になる。
とにかく、その頃は村でも評判の「飛びぬけた長生き」だった。・・・今から50年も前のことだ
・・・今では100歳以上が5万人もいて、全く珍しいことはない
(因みに私の母親は103歳で亡くなったので、これは長生きのDNAかも知れない?)

祖母は、何と11人(男8人・女3人)も子供を産んだと云う。
「昔はな 珍しゅうなかったんじゃ」と云っていた。・・・祖母は一人娘で、従って養子を迎えた
・・・この人(私の祖父)は士族の出で「実に立派なカイゼル髭」をなびかせていた(写真でしか見ていないが)
祖母の父親(私のひい爺さん)は事業をしていて、一家は裕福であった。
(尚、福本家は事業をするため山崎に移住したが、元は「姫路・英賀保」の住人である)
私の母親は「下から3番目の生まれ」で、男ばかりの中やっと生まれた娘として、いわゆる「乳母日傘」で育ったらしい。
男の子供は皆「高等教育」を受けた・・・多くは教師になり、そして校長になった。
・・・そして、3つの分家を作り、多くの財産分けをした。
一番最後に女が生まれたが、この子が非常に優秀で、地元の女学校を出て、学校の強い勧めで「神戸の高等女学校」に進んだ。
・・・しかし運悪く、この人(私の叔母になる)は「昭和13年の神戸大水害」により先生と共に学校で亡くなった。

とにかく、祖母の家は村では非常に資産家で(蔵が3つあった)、子供達も何不自由なく暮らしていたらしい。
例えば、今から100年以上前、一家で「蓄音機」で音楽を聴いて楽しんでいたと云うから驚きだ。・・・ド田舎で
・・・この蓄音機は、現在「テクノスHO記念館」に展示している。
(蔵の中でバラバラになっていたのを、私が貰って「組み立て復元」したものだ)
また、息子の中には「バイオリンを弾く」者もいた。
そして、祖母は「三味線の名手」であった。 ・・・いずれにしても今から100年も前の話だ
毛筆も達筆で、「そろばん(5つ玉)」も見事だった。
そして、特技は「お灸の資格」を持っていたことだろう。
・・・実際、噂を聞いて尋ねてくる人に「お灸のツボ」を教え、施術して感謝されていた

そんな裕福で幸せな時代は、永く続かないのが世の常である。・・・盛者必衰の理
祖母の配偶者(つまり私の祖父)が急死、祖母は50歳で事業の経営と、一家の大黒柱(中心)となった。
ほどなくして、一家の跡取りで校長をしていた長男が、(学校で)急死。
頼みの綱だった一番下の息子がビルマで戦死。
全ての歯車が狂いだし、ほどなくして「事業を廃業」した。
生活も困窮し、見るも無残なほど落ちぶれた。・・・要するに、落ちるところまで落ちた
(誰も祖母の面倒を見る者がいないので、ついに「孫(つまり私の従姉)」が家を継ぎ、祖母と同居することになった)
・・・私が物心ついて、祖母が記憶に現れるようになったのは、この頃で祖母が80歳ごろである。

要するに「栄華の時代」も「没落・奈落の底の時代」も「人間の裏表全てを見た」のである。
人間、経験に勝るものは無い!
・・・祖母から教えられた話を列記するが、以上のような経験から、裏打ちされ「毛穴から滲み出た内容」である。
 (何じゃそれは!と云う御仁も居ると思うが、「昔昔子供の頃聞いた話」として解釈されたい)

◎「おばあちゃんの話」・・・祖母は自分のことを「わし」と云った。 また山奥の田舎の土地の言葉であることをご容赦下さい。
① 話は両方からよう聞けよ かたっぽだけ聞いたんじゃ わからんど
   ・・世に云う「一方聞いて 沙汰するな!」と云う事と同じ
② 何でもな 難しゅう考えたら あかんのじゃ できんヤツほど 何でも難かしゅうする
   ・・ほんとに其の通りである
③ 正直に生きいよ 人間正直が一番じゃ 正直にしとったらな 困った時に天の神さんが助けてくれるど
   ・・私はこれで何度助けられたことか!
④ 人を騙すような人間にだけは なるなよ 人を騙すよりな 人に騙される方がまだええんじゃ
   ・・オレオレ詐欺師に聞かせてやりたかった
⑤ なんでもな 「天知る 地知る わが身知る」と云うてな 自分だけはな 絶対に騙せんのじゃ
   ・・自分に恥じることはするなということ
⑥ 隣の災難 赤めし炊いて 蔵が建ったら腹が立つ と云うてな 人はそんなもんじゃ
   ・・自分は自分、人は人、気にしないで生きる
⑦ 人を頼ったらあかんど 全部自分で考えてやるんじゃ 良うても悪うても 全部自分じゃ
   ・・全てを自分でやると、言い訳できない
⑧ 人間はな 運が大事やど 運がない人間は なんぼ頭がようても あかんど
⑨ 運に順番があってな 天の神さんが 決めるんじゃ そやさかいにな 自分が一番に、運が強いと思わなあかんのじゃ
   ・・運がつくよう、「氏神さん」にお参りすることだ。
   有名な神社、遠い神社ではない! 自分の近くの神社を氏神さんと云う。
⑩ 「智恵とチ〇〇」は この世で使え 死んでからでは使えんど
   ・・知識ではなく「智恵」が重要
  (知識は勉強したことで、知恵はノウハウである)・・・知識だけでは現実、何も出来ない
⑪ 絶対に人から金借りたらあかんど  絶対に人に金貸したらあかんど  ・・・たとえ親兄弟でも
   もし借りに来たら小遣い銭やって縁を切れ!
⑫ 自分が欲しいもんは 人も欲しい 自分が食べたいもんは 人も食べたい
⑬ 自分だけ ええことしたら あかんど 人も一緒じゃ
⑭ 信用でける人間、役に立つ人間は ほんまに一握りやど
   ・・私は45歳で起業したが、この言葉が身に染みて分かった
⑮ 済んだことは云うなよ 人のことは云うなよ
   ・・レースが終わってから馬券は買えん
⑯ 馬には乗ってみい 人には添うてみい そやないと分からんもんじゃ
   ・・人は見ただけでは絶対に分からない
⑰ 食べもんの好き嫌いと 人の好き嫌いは 言うたらあかんど
   ・・その他大勢のような生活をしている輩ほど、食べ物にうるさい!
⑯ ひでのり おまえは賢い子や 頭の後ろの恰好が「太閤さん」に よう似とる やがては太閤さんみたいになるど
   (今から思うと、何で祖母は「太閤秀吉の頭の形を知っていたのか?」と思う・・・笑い!)
   ・・褒めるネタが無かっても、こうやって祖母は私を褒めてくれた
⑰ あーうま この一服は 今までで一番うまいな おまえが直したキセルで吸うたらうまいわ!
   私は子供の頃から時々、祖母の「キセルのラオ替え」を得意としていた ・・・祖母は「きざみたばこ」を好んだ
   (ラオとは、キセルの先と吸い口を繋ぐ竹製の部分のことである)・・因みに「キセル乗車」はここからきた言葉
   ・・このように、子供が一所懸命に小刀で作った「努力」を最大限の自分の言葉で褒めた ・・・大切なことだ
      だからまた作ろうと思う・・・結局祖母が亡くなるまで、私はキセルのラオ替えをした
⑱ (私を前にして)お前い わしより大きゅうなったな 見上げるようじゃ
   私は体が弱く非常に小さかった・・・ 祖母は承知の上で、私を励ますため、こんなことを云ってくれていたのだ。
    何と云うありがたい事か!
   ・・言葉は人を生かすし、人を殺すこともある
  (祖母の哲学を基に、人間を描いたのがテクノスHO記念館にある「人間曼荼羅」である)

まだまだ沢山あるが、以上に18選を紹介した。・・・いわゆる祖母の18番である
何しろ、所は「兵庫県宍粟郡城下村大字金谷小字馬喰垣内」の田舎、標準語でなく敢えて当時の言葉で書いたので難解を謝す。
受け取り方は「あなた次第」である。
・・・尚、最近「祖母の肖像画」を描いたので、テクノスHO記念館に飾っている。

モノづくりの原点…それは「人と社会を結ぶ応用技術」

応用技術で暮らしを支えるモノづくりを。
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